相対性理論を学びたい人のために

まだ一度も相対性理論を勉強したことのない人は、何か一冊相対性理論の本を読みかじってみて、なぜこんなことが?という、疑問を持ってからこのブログに来てください。

Bathing Women と After Bathing だった

 現在2015年3月21日10時54分である。

 昨日(2015年3月20日)は、素晴らしい1日だった。
 7年半前の投稿で触れた、この絵を、実際に見てきたのだ。


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 この絵は、2007年10月26日の記事で触れたとおり、小倉遊亀(おぐら ゆき)という画家の『浴女 その一』という絵である。



浴女その一



 その時は、画集を買ったので、嬉しくて投稿したが、残念ながら、まだ、本物を見たことがなかった。

 あれから7年半。ずっと、いつかは本物を見たいと思っていた。だが、やっぱり、私は、数学が恋人、物理学が正妻という人間なのだ。美術品を積極的に見に行くことはなかった。

 そして、昨日、先日(2015年2月5日)シニャックの記事を投稿したときの、『髪を結う女』という絵を、母に見せてあげるために、上野へ行ったのだった。



一瞬立体的に見えた



 前回より混んでいたが、私は、シニャックの『クリシーのガスタンク』、シニャックとスーラのパレット、『髪を結う女』だけをもう一度じっくり見て、後は母に、好きなだけ見て良いよ、と言って、東京都美術館を出た。

 私は、昨日は、自分で、『浴女 その一』を見に行こうと思っていた。

 だが、美術館の知識がない私は、東京国立近代美術館というものが、上野にあるのだろう、と思っていた。

 ところが、ない。

 あれーっ、と思って、携帯のアイモードで、検索してみると、地下鉄東西線の竹橋だという。

 そうだったのか、と思って、東京駅に戻り、丸ノ内線には乗らず、歩いて大手町駅へ行き、東西線に乗った。

 竹橋駅の位置関係なんて知らないけど、方向感覚に自信のある私は、間違えても大丈夫と思い、勝手に改札口へ向かった。

 地図を見ると、反対側の改札口に向かった方が近かったことが分かった。

 まあ、いいや、と思って、歩いて美術館に向かった。

 東京国立近代美術館というところは、初めてだと思う。私の母は、私が幼稚園の頃などに、音楽会に連れて行ってくれたり、美術館に連れて行ってくれたりしたが、ここには来ていないだろうと思った。

 精神障害者保健福祉手帳を見せて、430円をフリーパスにして、入った。

 エレベーターで4階に上って、一応サーッと見た。上村松園だけ、丁寧に見た後、3階に降りた。

 どんどん進んで、

「あった。」

 それで、その部屋の他の絵をサーッと見た後、まず、2メートルくらい離れて、正面からじっくり見た。

 まず、

「大きい!」

というのに、びっくりした。

 データを見ると、2100mm×1760mm。

 縦が2メートル以上あるのだ。

 それでも、おろそかになっている点など、もちろん一点もない。

 その日の朝、インターネットを調べて、影山幸一という人が、國賀由美子(くにが ゆみこ)という専門家にインタヴューしたときのことが書いてあるページ


國賀由美子さんへのインタヴュー


を読んであったので、肌とタイルとの境界が、陰影のついていない単一の線になっているという日本画独特の画風を備えているのも、丁寧に見た。

 小倉遊亀の先生、安田靫彦(やすだ ゆきひこ)は、

「一枚の葉っぱが手に入ったら、宇宙全体手に入ります」

と教えてくれたそうだ。

 その先生が、教えたのは、ファインマン・レクチャーより前だが、ファインマンも、確か『ファインマン物理学』の中で、コップいっぱいの水の中に、宇宙の真理がすべて含まれている、と言っていたように思う。

 量子力学。それは、あらゆるものが、粒子であると同時に波でもあるというものだ。粒子なら宇宙のはるか彼方にある粒子は手に入らない。だが、波としての性質も持つから、宇宙のはるか彼方のものの情報を得られる。

 これが、私が、死んだ人を生き返らせられる、と感じた理由である。

 まあ、量子力学のことは、とりあえず置いておいて、小倉遊亀

 奈良女子高等師範学校の4年生の時、安田靫彦の『項羽』(こうう)という絵に見とれていて、寮の門限を破ってしまったそうである。それくらい夢中になれるくらいでなければ、芸術家にはなれない。

 私は、大きさにびっくりしながら、段々と近付いて、丁寧に見た。

 それから後は、私しかやらないことを始めた。解説を読み、その下にあった、英語訳を、電子辞書を取り出してチェックし始めたのだ。英語力を試したかったのではない。私に取って大切なこの絵の解説が、ちゃんと英訳されているかどうかを調べたのだ。

 ほとんど、誤りはなかった。この絵が清潔な印象を与えるというのを、

『clean』

と英訳していて、綺麗だけで良いのかな、と思って辞書を引いたら、

『clean 「汚れた所が1つもない」が本義』

とあったので、納得した。

 唯一の迷訳は、

『上気した肌』

を、

『flushed cheeks』

と訳していた箇所だった。上の絵を見れば分かるように、上気しているのは、『cheek』(ほお)だけではない。日本語ではちゃんと、『肌』と書いてあるのに、さすがにこれに相当する、適当な英単語がなかったのだろう。

『flushed bodys』

じゃあ、英語としておかしいのだろうな。

 まあ、この一点なら許そう。

 この英文をチェックしていて、私は、一度も引いたことのない珍しい単語をいくつも知った。

 obscene,lustful,lascivious,voyeuristic,peep,flirtatious,coquettish

 これらは、多分、アメリカやイギリスの人も、余り知らないものなのではないだろうか。これらは、すべて、この絵が、

「いやらしく見えない。」

というのを説明するために、使われている単語なのだ。

 私自身、

『シナ(漢字では「科」と書く)』

という言葉に、

『(人の心を引きつけようとする)気取ったしぐさ。また、なまめかしいしぐさ。』

なんていう意味があるなんて、知らなかった。日本語でもそうなのだから、多分、教養のある英国人でもないと、知らない単語なのだろう。よく、そんな単語を見つけ出して訳したもんだな。感心する。

 そして、収穫があった。英文の最後まで読んだお陰で、この絵が、

『Bathing Women』

と、訳され、また、『浴女 その二』が、

『After Bathing』

と訳されていることを知ったのである。

 私は、それを知って、慌てて、『浴女 その二』のところへ行って、きちんと確かめた。

 この美術館では、そう題名が書かれていたのである。

 英文で書くときは、気を付けなくてはならないな、と思った。

 その時はそれだけだったのだが、家に帰ってインターネットで調べたら、After Bathingという題名の絵としては、小倉遊亀の絵は、ほとんど引用されておらず、結局、Bathing Womenだけが、有名であることが分かった。

 まあ、私も、気に入っているのは、『その一』の方だけだものね。

 そうやって、絵を眺め、解説を読み、英訳に誤りがないかチェックし、もう一度、絵の下の縁、石の床、タイルを見て、お湯と曲がった線を水の屈折率からいってここまで曲がるかなあと考え、若い女の人の素敵に描かれた胸を見て、顔を見て、1時間ほど楽しんで、絵の前を離れた。

 部屋を出るとき、もう一度振り返って、チラッと見て、帰ってきた。

 今度は、ちゃんと、近い改札口から地下鉄東西線に乗り、大手町駅で降りた。

 地上に上がったとき、方向は分からなかった。曇っていたので、太陽もでていない。どっちが北か分からない。

 こういう時、方向感覚の悪い人は、慌てるか、地図を探そうと急ぐ。だが、私は、慌てない。まず、通りの角まで行ってみる。

 すると、電車が走っているのが見えた。

 私には、それで、十分だった。

「こっちだ。」

と分かり、元来た方へ歩き始めた。

 世の中の方向感覚の良い人が皆そうかどうか分からないけど、私の中には、本能的な方位磁石はない。だから、情報ゼロでは、方向が分からない。だが、ほんのかすかでも、情報があれば、自分がどこにいて、どちらを向いているのかが、直ちに意識の中で整理される。

 この速さと正確さについては、自信がある。

 実は、私も迷ったことがないわけではない。大学の入学試験の日、昔々お世話になった親戚の家に行くことになっていた。

 私は、桂の駅からまっすぐ行って左へ曲がれば良いはずだから多分行き着けるだろう、と思っていた。

 だが、その日に行ってみると、いくら探しても、家が見つからない。20分くらい迷ってから諦めて電話して、迎えに来てもらった。

 迷った理由は、私が、大きくなってしまったからだった。

 私が小学校1年生になった時、父は、『かわいい子には旅をさせよ。』というつもりだったのだろうが、私を、東京駅から京都のおばさんのところへ、新幹線で旅をさせた。

 私は、父から鉄道の薫陶を受けていたので、ちゃんと京都駅で降りた。だが、小学校1年生には無理と思い込んでいたおばさんが、私を見つけられず、母に、

「降りなかった。」

と伝えたので、それを伝え聞いた父は、その日会社の会議で、他の人の声が耳に入らなかったそうである。もう、息子には会えないのではないかと。

 私は、おばさんの顔を知らなかったので駅の人に、呼び出しをかけてもらった。お陰で、おばさんに会えて、桂の家に連れて行ってもらった。

 その時以来だったのだ。小学校1年生には、家までは、遠かった。だが、高校3年生になってしまっていた私には、あっという間に通り過ぎてしまい、そこの家だと思わなかったのである。

 こういう風に、あの時だけは、迷った、なんて覚えているくらい、私は迷わない人間なのだ。

 ちゃんと、東京駅へ戻ってきて、帰ってきた。

 昨日は、2つの美術館をはしごする、なんていう、芸術三昧の一日だったのである。

 障害を持つというのは、辛いことだけど、芸術家にとっては、自分を守るものにもなるんだね。

 それにしても、本物はいいねえ。ああいうものは、個人に持たせずに、美術館で、皆に見られるようにして正解だね。

 ところで、女の人の体って、綺麗だね。男の人には、真似できないよ。ジェンダーとかフェミニズムなんていう言葉を越えて、男女には区別がある。あの絵を脳裏に浮かべながら、それを感じている。

 今日は、ここまで。

 現在2015年3月21日15時20分である。おしまい。