相対性理論を学びたい人のために

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赤みそと白みそ

 現在2018年6月5日20時54分である。

「あら、太郎さん。千秋楽は、一昨日だったのに、やっとブログ書き始めているの?」

 どうやって、思いを伝えようか、考えていたんだよ。

「この題は?」

 先日、結婚などに関して、文献をあさったと話したときの、

村瀬幸浩『恋人とつくる時間(とき)』(KKロングセラーズ

という本の中の一節なんだ。4ページくらいだから、引用するよ。




 「共生」とは異なった文化の出合いと融合である

 あなたは何歳ですか? 彼は? 仮に22歳としましょうか。25歳でも30歳でもいいですけど。ともかくそれぞれが生きてきたかなり長い歴史があります。年齢が10歳も離れれば生きた時代にもへだたりがあるはずです。また狭い日本とはいえ育った地方も違えば、言葉も、風習というか生活習慣も異なるでしょう。

 そのふたりがある町で、ある村で出会って、惹かれ合って意気投合して、付き合いはじめる。

 月に1度のデートも次第に回数が増えはじめ、毎週末の待ち合わせ、仕事や勉強や親の干渉やあれこれの日常的なプレッシャーからのがれての輝く時間、そのときが楽しみでまた生きていける。そんな日々がきっとあるのでしょう。そしてそのときは少しは着飾って、少しくらい体調がよくなくても笑顔を絶やさないようにして、自分のいいところを少しは意識して見せようとして、少し緊張して……。デートはそんな「いいとこ見せっこのゲーム」といっていいかもしれません。

 でも一緒に暮らすとなったら、それではすみませんよ。結婚でも同棲でも、ともかく共生生活をおくるとなったら「いいとこ見せっこ」では終わらない、互いの生活のすべてが見えてくるのです。

 そしてデートのときには気づかなかった、話題にもならなかった小さなことの一つ一つ、朝起きたら歯をみがくのかみがかないのか、夜眠る前はどうなのか、ごはんを食べ終わったらすぐテーブルの上を片付ける習慣なのか、そのままにしてしばらくおしゃべりしたり、ひと休みしてからするのか、おならをしたら「ゴメンナサイ」って言うのか、黙っているのか、などなど数えあげればキリがないほどの「発見」「戸惑い」があることでしょう。

 それが新鮮な驚きとかわいらしさと楽しさになるのか、腹立たしさやいら立ちをひき起こすのかは千差万別でしょうが、ともかく共生すればそうしたこととの出合いは必然です。

 そのことを私は「異なった文化」との出合いと考えてみたらどうかと思っているのです。異文化、というようにまとめて表現すると、何か理解できないほどの距離に感じられそうですから「異なった文化」としておきましょうか。

 そして「共生」とは「異なった文化の出合いと融合」だと考えてみたら、その望ましいあり方の筋道が展望できるのではないかと思うのです。

 例えばの話、私は名古屋の生まれで高校卒業までそこで育ちました。ですから毎朝の食卓にあったのは赤みそのみそ汁でした(毎朝、なんていうのはいつ頃からだったか、戦争による疎開中、それから戦後の食糧難の頃には、ごはんにみそ汁どころか芋だけという日もつづいたっけなぁ、とふと思い出しましたが)。妻は静岡県富士宮の育ちで、富士宮ではどこの家も同じかどうか知りませんが、白みそ、糀(こうじ)みそでした。私たちは結婚して一緒に暮らしはじめるまでそのことを知らなかった。知ろうともしなかったといったほうがいいかもしれません。

 一緒に暮らしてはじめて、さあ、一体どっちのみそ汁にするのか。一椀ずつ別々のみそ汁をつくるのか。私は妻を赤みそ党にすべく自分でみそ汁をつくりはじめました。「どうだ、うまいだろう」。妻はしばらくはおいしいと言ってくれていましたが、本心はやはり白みそ糀みそを食べたかったのでしょう。自分が買ってくるみそはいつの間にか赤みそではなくなりました。

 そしてやがて冷蔵庫には赤みそと白みそが並ぶようになり、台所に立った人間が、自分の好みのみそを使い、台所に立たなかった者は、それを黙って食べるという習慣が定着していきました。そんな形で月日がたつうちにふと私は思ったのです。ひとりの人間が10数年も食べてきたということは、きっと独特のうまさがあるのであろう。自分の好みが長い時間かけてつくられた結果だとすれば、人の好みにも共感することができるのではないか―。

 そう思って私は、白みそのみそ汁づくりにも手を出すことにしました。

 そしてそのうちに、白みそのうまさにも少しずつ気がつくようになってきたのです(もっとも赤みそのほうがうまいということに変わりありませんが)。




 以上 pp.193~196 より。


 この最後の1行には、傍線が引いてあり、

『この話はとても素敵だ。この本の中で一番気に入った』

と、私が、書き込んでいる。

「いつ頃、書き込んだの?」

 1992年の6月21日だ。

「私が、生まれる前! 1回目の失恋の後ね。1992年の暮れから、分子生物学の女の人とのことが、始まるのよね」

 そう。だから、奥付の次のページに、私が、感想文を書いている。



 太郎が恋愛に対して言わねばと思っていた事がほとんど書いてある。また、後半の結婚後の話はまだ知らなかったことも多くあり無理して一日で読んで良かったと思う。女の人とつき合う時、一緒に語り合う本としてこの本が最適だろう。「第二の性」では厳密すぎるし、「源氏物語」では収拾がつかなくなる可能性がある。しかしやはり専門家というのはたいしたものだと思う。太郎はそういう人を助力する位のことしかできないだろうが、この知識は必ずいつか生かそう。いい本を読んだ。

1992.6.21 17:45~22:55



「太郎さんは、若いときは、1人称に、『太郎』を、使ってたのね。『第二の性』と『源氏物語』というのは?」

 『第二の性』は、私の会話によく登場する、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの代表作。

 ただ、私は5巻あるうちの第1巻読んだだけで、気分が悪くなってしまって、その先を読めなかった。

「上でも、『厳密すぎるし』って、書いてるわね。太郎さんが、読めないなんて、よっぽどね」

 これは、哲学などの文献に慣れるまでは、読まない方がいい。

「『源氏物語』のことは、なぜ書いてあるの?」

 クロイツェルソナタの女の人は、文学部だっただろ。私は、一緒に、『源氏物語』を原文で読みながら、性の問題を論じ合おうと思ってたんだ。

「危ない、危ない、私も、その犠牲にされるところだった」

 私が、成長したから、麻友さんが、助かっていることは、多いんだよ。


「それは、そうと、あの本を4ページも引用したのは、なぜ?」

 私、麻友さんに、殺されるかも知れない。

「えーっ、何言ってるの。殺さないわよ」

 でも、嫌われるかも知れない。

「それくらいは、あるかも知れないわねぇ」

 やだ、嫌われたくない。

「子供みたいなこと、言ってないで、話しなさいよ」

 嫌わないでねー。

「うん」

 6月3日の日、ちゃんと劇場に行って、前回と同じように、3階の一番後ろの座席に座った。

 舞台が真っ暗になり、音楽が始まった。

 そのとき、

『あれっ、前回と違う!』

と、感じたんだ。

「そりゃ、全く同じではないわ」

 そういうことじゃなくて、前回の初回の時は、すっごく引きつけられて、ものすっごく面白かったのに、ちょっと色あせちゃったな、みたいに感じたんだ。

「あー、太郎さん、1回目の時は、映画も観てなかったから、すべてのことが、目新しくて、面白かったんでしょう。それを、毎回要求するのは、ちょっと酷よ」

 でも、『アメリ』を3回とか4回とか、観に行ってる人も、いるみたいじゃない。段々面白くなくなって行ってるのかなぁ?

「太郎さんは、今までに、同じお芝居とか、同じ映画とか、観に行ったことないの?」

 ほとんどない。中学の頃、家族で『天空の城ラピュタ』を観に行った。その後、高校生の時、友達の家で、『ラピュタ』観たときは、退屈してしまった。

「でも、太郎さん。『英雄』は、何回も聴くでしょう」

 多分、1週間に2回くらいは、聴いていると思う。

「『アメリ』の音楽を、楽しめなかった?」

 ところどころ、楽しんだけど、私、10回くらい聴かないと、1つの曲を覚えられないんだ。


「曲が、悪いのかしらね?」

 多分そうじゃないと思う。

 私、モーツァルトの『フィガロの結婚』と『ドン・ジョヴァンニ』と『魔笛』とワーグナーの『ニーベルングの指輪』のDVD持ってるけど、1回観たら満足しちゃって、2回目は観てないんだ。

モーツァルトでも、そうなのね」


「太郎さん、どうして、こんな、永遠に私に嫌われるような話をしたの?」

 麻友さんにぞっこんな私ですら、麻友さんの主演のミュージカルを、1回しか楽しめない。

 そのことを、本当に好きな人にしか、そのものを、心から楽しめない。

 私に取って、楽しくてたまらないものである、数学も、麻友さんには、私と同じようには、楽しめないんだなあと、しみじみ感じたんだよ。

「でも、私、太郎さんの数学や物理学の話、結構楽しめたわ」

 うん。それで、いいんだよ。相手と同じレヴェルまで、楽しめなくても、相手の楽しんでいることを、少し、理解してあげる。

『赤みそと白みそ』の話って、そういうことだろ。

「私が、数学を完全に理解できなくても良いのね」

 そういうことだ。お互い無理せずやっていこう。

「じゃあ、バイバイ」

 バイバイ。

 現在2018年6月6日20時59分である。おしまい。