現在2007年11月13日4時03分です。
昨日、11月12日の月曜日は、卒業論文の締め切りだった。
私は今年、つまり2007年の9月28日に論文の草稿を書き上げ、担当教官の生井澤先生に、郵送して、判断を仰いだ。
しかし、すぐには、返事をもらえなかった。
そこで、10月7日に先生にメールを送り、
「何らかのコメントを頂くなり、面談していただかないと、論文を完成できません。」
とお願いした。
それに対して、
「郵便は届いていますが、まだ、精読できていません。10月末までには、コメントします。」
という返信メールがあった。
「一応、論文の草稿が届いているなら大丈夫だろう。」
と、私は安心していた。
その時の草稿というのは、私のリンク集にある、「私の論文の生原稿」というところをクリックして開かれるウィンドウの、(卒業論文第3稿)というものである。
以前の、小学生のための本を書く、というのは、下書き段階で、頓挫してしまい、(卒業論文第1稿)として、断片があるだけである。
10月末になり、多分そろそろ、
「大学本部まで来なさい。」
という命令があるだろう、と思っていたのだが、いつまでたっても、なんの音沙汰もない。
段々、不安になり、私は、11月6日の夜に、改めて先生にメールを書き、
「余りにも私の論文のレヴェルが低くて、コメントできなかったのでしょうか? 呼び出しには、応じます。」
と、恐る恐る尋ねた。
それに対し、翌日メールがあり、
「11月9日に是非来て下さい。」
とあった。
私は、11月12日が期限なので、もうこのまま本部で先生にお会いして、「OK」が出たら、そのまま提出してこようと思った。
そこで、指定通り、黄緑色のファイル2冊に完成原稿2部を綴じ、ファイルに題名を書けば、そのまま提出できるようにした。
そうやって、11月9日の金曜日、京葉線の海浜幕張にある、放送大学本部まで、先生を訪ねた。
私としては、ここまで待たせたのだから、もう、先生なりに、修正箇所なども、考えてあり、それを指摘するつもりなのだろう、と思っていた。だから、修正できるように、原稿のワード形式のファイルをUSBメモリに入れて持って行った。その時の「完成原稿」というのは、(卒業論文第5稿)となっているものである。
そして、先生にお会いして、
「お久しぶりです。」
と言ったら、開口一番
「これは、ちょっとやばいよ。」
と、おっしゃる。なにがヤバイのか分からない私に、
「電荷保存則が破れている、と最初に宣言してある論文なんか発表したら、まず、物理学者の相手にされないよ。君の論文は、マクスウェルの電磁気学を否定するものなんだよ。マクスウェルの電磁気学は、現代の素粒子実験なんかで、間違いないことが、実験的に証明されているんだから。君がこの理論を実験で証明してくれるんなら良いけど。」
と、おっしゃった。
私としても、反論はあった。それは、私自身、この論文の意味をある程度認識していたからだ。私は、
「磁界というものがない、という理論を作ったんです。だから、電荷が保存しなくても、実験で、その効果が相殺されていると見られるんじゃないでしょうか?」
と、一番言いたかったことを言った。だが先生は、
「電荷というのは、電子1個の持つ量なんだよ。あるものの電気量が、変化するということは、電子が、2個になったり、3個になったりする、ということを意味するんだよ。」
この質問は、予想していなかった。そのために、私としても、返答に困った。更に、
「君は、原子核の周りを回る電子を考えているね。これは、加速度運動しているんだよ。だから、特殊相対性理論では、扱えないんだ。」
と言われた。そこで、今度は私が質問した。
「マクスウェルの電磁気学で、加速度運動を扱えないとしたら、この電子は、物理でどう扱うんですか?」
それに対し、先生は、
「つまり、一般相対論的な電磁気学が必要なんだね。マクスウェルの電磁気学は、線型な理論だろう。一方で、一般相対性理論は、非線型な理論だ。だから、非線型な電磁気学の理論を作らなければならないね。」
と、おっしゃった。この段階で、私は、自分の論文で考慮に入れていなかったことに気付いた。それは、
「2つの原子があって、その周りを2つの電子が、同じ位相でまわっている時、私は、電子同士はお互いを静止していると見る。」
としていた。だが、
「一般相対性理論によれば、本当に回転している系は、慣性系を回転している観測者から見たものとは異なる。」
という、当たり前のことを見落としていたのだ。これは、簡単に言えば、シュワルツシルド解を回転している観測者から見ても、カー解にはならない、ということである。カー解は、本当に回転している系にブラックホールのような天体がある場合の解である。
この
「絶対回転がある。」
という事実は、私が京大時代、ゼミでみんなから教えてもらったことだった。それをまたしても、間違えるとは!
私としても、どうして良いのか分からなかった。
「こういう見方も出来る。という意味で、この論文にも意味があるんじゃないでしょうか?」
と、言ってみたが、先生は、
「君が恥をかくだけだよ。それに私としても、この論文に、単位は出せない。もっと早く君の論文をちゃんと読んで、指導してあげられれば良かったんだけど、忙しくてね。」
と言われたので、やむなく、
「じゃあ、記念に、この論文持っていて下さい。」
と言って、ファイルに題名を書き、先生に渡した。
先生は、
「これは、お蔵入りだな。」
と言って、受け取って下さった。
さて、金曜日は、疲れきって帰ってきて、土曜日、日曜日は仕事を入れていたので、それに明け暮れた。
11月12日。締め切りの月曜日になった。私としては、もう一年、卒業研究をする気は無くなっていた。あの先生は、教育熱心な方だと思っていたのだが、少なくとも卒業研究の指導をすることに関しては、重きを置いていない。
いや、正直に言って、あの先生は、教育熱心な先生ではなかったのだ。私の人を見る目がなかった。そういうことだ。
だとしたらどうしよう。
「ようし、今日中に新しい論文を書いて、持って行こう。」
思い立ったら速い。すぐに、今までの草稿を練り直し、新しい論文を書き始めた。
しかし、やっぱり、一日で卒業論文を書き上げるというのは無理だった。仕方なく、16時58分になって、途中までの原稿をプリントアウトし、先生には、
「新しい論文を、提出しますが、完成原稿は、後で差し替えます。」
と、メールし、大学本部へ向かった。
この時点で、私は、間違えていた。良く、締め切りの期限を読むと、
「郵送が望ましい。持参の場合、18時まで。(時間厳守)」
と、書いてあるではないか。
戸塚から、東海道線に乗ったが、携帯で、Yahooの路線情報を見ても、18時までに、間に合うはずがない。
そこで、私は一計を案じた。目的地は千葉だ。今、横浜にいる。だとしたら、海を渡った方が速いのではないか?
「海ほたる」
である。私は横浜駅で電車を降り、タクシー乗り場へ向かった。運転手さんに、
「千葉の幕張までだと、いくら位かかりますか?」
と、尋ねると、
「2万円はかかるね。」
という返事。もちろん、私がそんなに現金を持っているはずがない。恐る恐る、
「クレジットカードって使えますか?」
と聞いてみる。
「もちろん、使えますよ。」
電車を降りてしまった以上、これしか方法はなかった。タクシーに乗り込み、
と言った。
さて、運転手さんが、運転している間、私は、黄緑色のファイルの表紙に、題名や、学生番号を、マジックペンで書き込んでいった。
「そろそろ着いてもらわないと、困るんだがな。」
と思って、
「今、電車で言うと、どの駅の辺りですか?」
と聞いた。
「新木場の辺りだよ。」
これには慌てた。
「海ほたるを使った方が速かったんじゃないですか?」
と聞くと、
「いや、あれは木更津の方へ行くから、却って遠回りだよ。」
という返事。
もう、時計の針は18時の目の前である。私は、これ以上、タクシーで行くのを諦めた。
「じゃあ、新木場でも良いですから、京葉線の駅で降ろして下さい。」
それで、着いたのが、葛西臨海公園駅。
さて、私は、クレジットカードというものを持っていたが、今まで、ネットの、マーケットプレイスのものを買う時に使ったり、公共料金を払うのに使っていただけで、カードを渡して、現金のように、使ったことは、一度もなかった。
「どうやって使うのだろう?」
と、こわごわ手渡すと、運転手さんは慣れたもので、サッと、機械に通し、紙をプリントアウトすると、
「これに、サインして下さい。」
と言って、渡してくれた。
「えっ! こんなに簡単に使えちゃうものなの? パスワードとか暗証番号とか無いの?」
驚きを隠せないまま、タクシーを降り、電車に乗った。
私は今まで、こんなに恐ろしい「カード」というものを持っていたのか。もし、これを落としたら、誰でも、私の口座から引き落とすことにして、買い物が出来ちゃうじゃないか。
私は、今までの自分の危なっかしさに恐れをなしながら、電車が、海浜幕張に着くのを待った。
もちろん、海浜幕張に着いた時は、19時を回っていた。それでも、タクシー代として、14,020円も使ってしまった手前、引き下がるわけにはいかなかった。一万五千円と言えば、私の5日分のお給料だ。今月後半、稼ぎまくらねばならない。
さて、大学本部にやってきた。無理なのは分かっていた。事務的なこと、というのは、融通の利かないものである。
教務部修学支援課という部屋の前に行くと、まだ、煌々と、電気がついて、人もたくさんいる。19時32分。既に、1時間半以上遅刻である。
開いているドアをノックすると、女の人が一人こっちへ来た。
「卒業論文を持ってきたのですが。」
「はい。じゃあ、受け取ります。」
それだけだった。何も言われなかった。奇蹟が起こったような気持ちで、私は、帰途に着いた。
帰りの電車の中では、ルービック・キューブを回しながら、
「あのタクシー代が、私を救ってくれたのだろう。」
と、訳の分からないことを考えていた。
提出した論文の断片は、(卒業論文第6稿)として公開してある。これに、書き加えなければならない。12月には、審査があるので、それまでに、差し替えなければならない。
事務的には、卒業論文を受理しているので、単位をもらえるかどうかは、次に書き上げる、論文次第である。
とにかく、私としては、放送大学というところに失望を隠せないと同時に、そういういい加減なところだったから、1時間半の遅刻も許されたのだろうな、と思う。働きながらの人が通う大学だから、おおらかなのかも知れないが、レヴェルは、確実に低い。
「やっぱり京都大学に再入学し、卒業しなければ、京都大学の基礎物理学研究所には行けないな。」
改めて、その思いを強くしたのであった。私のこれから進む道は、まだまだ険しい。
先が長いのだから、気長に構えないと、やっていられない、とも言える。
私の今日の投稿は、決して、放送大学の名誉を汚したり、担当教官の生井澤先生を非難する目的で書いたのではない。ただ、事実を書いただけである。
これは、日記のようなものとして、読んでもらった方が良い。
誰かを困らせようというのではないのだ。
今日はここまで。
現在2007年11月13日6時30分です。おしまい。
追記
現在2011年11月13日20時38分である。
本文を投稿してから、ちょうど4年である。
2011年11月9日に少し手を加えた。生井澤先生の名をタグと、本文に加えたのである。これは、私のブログを訪れる人の10%位が、生井澤先生の情報を得ようとしてのもののようなので、この投稿も読んでもらった方が、良いのではないかと思ったからである。コメントも、読んで欲しい、長い本文を読んだ後では、ちょっと酷かも知れないが。
ただ、私のブログが。余りに有名なので、Googleで、「生井澤先生」と検索すると、この投稿が、トップに出てしまう。
生井澤先生に申し訳ないので、その後の経過も、表示されるように、改訂するつもりである。
それでは、今日はここまで
現在2011年11月13日22時23分である。おしまい。