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我が父に捧ぐ4

 第4章 私が救いたかった人達

 

 私はどういう人を救いたかったのか?

 

 以前新聞の恋愛相談のところで、次のようなやりとりを見たことがあった。

 

 30歳代の男の人が質問していて、次のようなものだった。

 

「今の世の中の性は乱れていますね。先日偶然出会った女子高生と初めて体の関係を持ちました。でも、その後、電話してもはぐらかされちゃって全然会ってもらえないのです。どうしたらいいのでしょう。」

 

 これに対する返事が、

 

「30代の男性が高校生と寝るなんて、確かに世の中乱れてますね。それ一つをとって、世の中の性が乱れているなんていうあなたのように、中途半端に真面目な人が一番困るんです。1回初体験が出来たんですから、いいじゃないですか。あわよくばもう一度なんて思っているんでしょう。」

 

というものだった。私は、この中途半端に真面目というのはどういう状態を言うのだろう、と、かなり考えていた。

 

 私自身は、誰とでもセックスできるようにすべきだ、なんて考えている位だから、真面目でない方なのだろうか。それとも、一度も女の人と肉体関係を持ったことがないのだから、真面目な方なのだろうか。それとも、私も中途半端に真面目なのだろうか。

 

 こういう時、基準になるのは私の父だった。

 

 父は真面目な人だった。

 

 大学でも、勉強しかせず、本人の言葉を借りるなら、両親に経済的負担をかけないように、教科書も買わず、図書館で借りてなんとかしたという。頭の堅い人の見本のような人だった。

 

 私が真面目な人、という時の基準は、ある意味、父だった。それに比べると、私は真面目ではなかった。だが、私は私なりのやり方で、誠実に生きていた。

 

 私が救いたかった人には、父のような、真面目な人も含まれていた。だが一方、先の記事にあるような、中途半端に真面目な人のことも救いたかったのだ。

 

 というのは、世の中の多くの男の人が、こういう中途半端に真面目な人か、その予備軍のような状態にあるように私には思えるのだ。

 

 新約聖書の姦通の女の節でのイエス様ほど、私は立派ではないが、

 

「自分は中途半端に真面目ではないと思うものからまず石を投げよ。」

 

と、言われて、石を投げられる人が果たして何人いるだろうか?

 

 私の父は投げる権利は持っているかも知れないが、恐らく投げないだろう。それは、父は

 

「学生時代、性のことはなるべく考えないようにしていた。」

 

と、言っていたからだ。父は、ある意味、この問題を解くことから逃げたのである。真面目だったかも知れないが、誠実ではなかったのだ。この問題に関して。

 

 父のことはさておくとしても、私が中途半端に真面目な人も救いたいと思う気持ちを分かってもらえるだろうか。

 注記:



 2011年11月29日16時34分。一カ所修正しました。