相対性理論を学びたい人のために

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理論物理学者として

 現在2007年8月21日9時32分です。

 今日書くことは、ある意味非常に書きにくいことなので、脱線しないよう、心懸けることにする。

 それでも、完全に誠実に書ききれるかどうか、ちょっと不安な部分もあるが、私が今までの人生で、これは本当のことだろうと、ほぼ確信していることのみを書くことにする。

 なぜ、これを書くのか?

 私と同じようなことで、迷ってしまう人を無くすためである。もう一つは、私がこれを書けば、80人位の人が読むので、ここに書いたことが、本当かどうか、ある程度確かめることが出来る。

 この2点のために、これを書くことにする。

 論文の下書きでは、あからさまに書いたが、ここでは、読むのは大人がほとんどであるから、余りえげつない表現を用いるのはよそう。

 私が書きたいのは、男女間の生命誕生につながる行為についてである。

 私はこれについて、小さい頃から、疑問に思っていたことがあった。

 モーリス・ルブラン著の怪盗ルパンシリーズの短編に、「結婚指輪」という話がある。

 アルセーヌ・ルパンが、昔好きだった女性を、窮地から救い出し、その子供を取り戻してあげる。という話だ。その女性が陥った窮地というのは、その女性が昔好きだった男性のイニシャルを指輪に刻んでいた、ということを夫に知られたから、というものだった。

 この短編の最後で、モーリス・ルブランは、ルパンにこう尋ねる。

「天下のルパンともあろうものが、つまらない男女の情事に手を焼くなんて。」

 そうすると、ルパンは、

「いや、本当に二人の仲は、プラトニックなものだったのだよ。」

と、答えるのだ。

 私がずっと謎だったのは、なぜプラトニックな恋愛なら、良くて、肉体的な恋愛なら、一段低いものになるのか、ということだった。

 もう少し言うと、恋愛関係が肉体的なものに進むと、何か変わるのか?

 これは、恋愛小説の永遠のテーマの一つなのかも知れないが、私の知る限り、体の関係を持ったからと言って、その男女が、物理的に何か特別な関係を持つようになることはない。

 ただ、人間同士だから、他の人とはしたことのないことをした相手、として、特別な感情を持って、見るようになる。ということなのである。

 女性は、自分を最初に征服した男性に対して、従属意識がある、なんていうことも言われているが、これも、特別な人、という意識があるからだ。

 結局、肉体的な関係を持ったからといって、人間同士の恋愛が変わるわけではない。これが、今日下した最終的な結論である。

 私は大学3回生の時に、恋をして、その時には、もう体も成熟していたから、私の体も、彼女を欲していた。

 だが、私としては、どうしたらこの感情を彼女に伝えられるのか、分からなかった。

 相手の女性がクリスチャンだ、という噂を聞いていたので、どうしたものだろうか、と悩んだあげく、

「結婚してください。」

と、言ったのだった。

 相手の女性は、私より3歳年上だったし、もう少し賢い女性だったならば、私の「結婚」の意味を理解して、多少とも、気の利いたことが出来たかも知れない。

 だが、その女性は、ただ拒むことしかできなかったので、私は、自分の体の欲求をいたずらに暴走させてしまった。

 私が気が狂ってしまった原因の一つは、この失恋であったことは、ある程度事実である。

 彼女だけに責任を負わせないために書いておくと、私は入学早々にも一度失恋していて、この時以来、私の頭から、おかしな妄想が離れることはなかった。

 しかし、それらの失恋があったとしても、最終的に私が気が狂ってしまったのは、やはり、数学の基礎をきちんとさせておきたい、というどうしようもない気持ちを上手く処理できなかったことが原因であったと、今でも思っている。

 それが事実であることは、私が数学の基礎を築き直してくるにつれて、私の病気の方も次第次第に良い方に向かっているからである。

 さて、人間、人生に何度か、失恋を味わうこともあるだろう。だが、気が狂う程まで、悩むのはやり過ぎというものであろう。

 体が、相手の女性、または、相手の男性を欲しているのならば、それをそのまま伝えてみるのが、一つの方法である。

 ファインマンの「ご冗談でしょう、ファインマンさん」の「ただ聞くだけ?」の節にあるように、ストレートに、

「私と一夜をともにしてくれませんか?」

と、聞いてみること。

 これを邪魔するのは、それが、生命誕生につながる行為であること、というものだけである。

 もう一つこれよりやや重要度は下がるが、性感染症が、うつる可能性がある、ということである。

 小説の永遠のテーマである、心の問題が、どうあろうとも、人間にとって、生命誕生につながる行為は、時に、生命を誕生させなくとも、人間に、大きな自信を与えるものである。

 そして、そういう行為も時には必要なのだと私は考えている。完全な避妊と病気の予防、これを実現するのは、現代科学を持ってすれば可能であると私は考える。

 理論物理学者として、私は実際に実験をしてみることなく、この結論を出した。次は実験してみる段階である。

 今度恋をした時は、上手くやってみるつもりである。

 なぜ私が、これ程までにこの問題を大げさに書いたのか、それは、これがこの問題に対する、私の最終的結論だからである。

 私は小さい頃から、男女が抱きしめ合うというのはお互いにとって、幸せなものだろうが、生命誕生につながる行為というのは、男性だけにとって、快楽なのであって、女性にとっては、痛いだけなのだろう。と思っていた。男女のラヴ・シーンのある映画も観たことあったし、小説だって読んだことがないわけではなかった。

 ベッド・シーンのあるミステリーだって読んだことがあった。

 だが、思い込みというのは面白いもので、肝心のその行為自体は、女性にとって痛いだけなのだろう。と、完全に思いこんでいた。だから、強姦というのは罪になり、愛する男性に対してだからこそ、女性はその痛みを我慢するのだろう。と思って疑ったことがなかったのだ。

 こう思っていたから、私は思春期を非常に悩みもなく通り過ぎてしまった。宗教などで、その行為を禁ずるのも私にしてみれば当たり前で、悩むことはなかったのだ。

 私は、高校3年の時に恋をして、その時、その影響もあり、新聞で、望まない妊娠をして中絶の道を選ばねばならない苦悩にあえぐ女子高校生などの記事を興味を持って読んだ。

 私にしてみれば、なぜその女性達が、相手の男性にその行為を許してしまったのか、良く分からなかった。相手が痛いだけのことを、自分の快楽のためだけに、平気でするような男性が、その女性を本当に愛しているのか?

 私はこの問題を、当時の恋の対象と議論してみたいと思っていた。しかし、私は、残念ながら、失恋してしまい、その機会は訪れなかった。

 生命誕生につながる行為が、女性にとっても快楽になる場合がある。ということを知ったのは、浪人していた時であった。

 今だから、もう時効になっているので、ここに書いても良いと思うのだが、私には妹がいる。この2つ年下の妹が、「少年隊」という、まだ解散してはいないから、未だに少年なのであろう3人組の歌手の一人のファンで、女子高校生向けの音楽雑誌のようなものを買っていたのだ。

 その雑誌は、高校生の興味のありそうなことが色々書いてあったようで、私は何気なくそれを眺めていて、女子高校生が、性の相談を聞いてもらっているコーナーを見つけたのだ。

 そして、その時初めて、

「あっ!女性も男性の体を求めているんだ。」

という、恐ろしい事実を知ってしまったのだ。思春期を何の悩みもなく通り過ぎてきてしまった私にとって、青春真っ盛りの18歳にして初めて、恐ろしいことを知ってしまったのだ。

 この時の感情は、確かに私にとって発見だったのだが、

「恐ろしいことを知ってしまった。」

という恐怖のようなものが強かった。当時の日記はもう残っていないが、私は、この日の部分だけ別のノートに

「今日は妹の雑誌を見ていて、大変なことになってしまった。」

という書き出しで、長々と20ページ位書いたのを覚えている。

 数学において、平行線は1本しかない、という約束事は、2千年以上信じられてきた正しい約束事だった。その約束事には実は、例外があった。いや、例外どころか、平行線が何本も引ける幾何学や、1本も引けない幾何学というものの方が、より豊かな数学を含んでいるということが分かってから、まだ百数十年しか経っていない。

 この新しい幾何学が生まれた時、かのゲオルグ・フリードリッヒ・ベルンハルト・リーマンが有名な最初の講義をした時、それを理解したのは、あのカール・フリードリッヒ・ガウスただ一人だったという。この時のあまりの感動のために、ガウスは帰り道でドブに落ち、死期を早めたというのは、数学者の間では有名な話である。

 それほどまでに、人間にとって、今まで信じ切っていたことが、根底から覆された時というのは、恐怖や驚きを感じるものなのである。

 私にとって、女性は痛いだけだ、というのは、平行線の公理のようなものだった。それが、公理が間違っていたなんてことになったのだから、私のうろたえようは、想像に難くないだろう。

 恐らく私がこんなことを一所懸命書いても、ほとんどの人は、なぜそんな簡単なことが分かっただけで、喜んでいるの?と、疑問に思うだろう。

 そうなのだ。ほとんどの人にとって、これは思春期の頃や、もっと前にとっくに当たり前のことになっていることなのだ。

「初体験をして、私の子供時代は終わった。」

などというような、青春映画もあるが、多くの人にとって、私ほど一辺に全部がひっくり返ってしまった、などということはないのだろう。

 それからの私は、この部分に関して、自分なりの新たな価値観、宗教観、恋愛観などを築きなおさねばならなかった。

 元々、横浜翠嵐高校から、広島井口高校へ行って、自由な雰囲気がないと、憤ったりしたような、自由の好きな私であるから、男女間の関係に対しても、自由な関係を持つのが、望ましいと感じたのは、当然のことであった。

 最近では、女性の進出も目立ち、今さら女性問題などという言い方をしなくなったが、私が大学1回生の頃は、まだ書店には、女性問題という棚があった。

 私はそういうところへ行って、まず、「性」についての問題の最も基本的な文献として、キンゼイリポートというものがあることを知った。これは今では少し時代遅れになってしまっているのかも知れないが、「性」の先進国アメリカで、「性」に悩む大人達のために、キンゼイ博士が行った、立派な研究報告である。

 

 

 

 

 私は、その全文を読むほど時間がなかったが、どれくらい丁寧に書かれているのか、というのだけはつかんだ。というより、これをじっくり読むというのは、非常に精神衛生上よろしくないのだ。

 私は、ボーヴォワールの「第二の性」も5巻ある内の1巻だけは読んだのだが、ここまでぎっちりと書かれてしまうと、読んでいて、気分が悪くなるのだ。

 だから、私が、数学を学ぼうという初心者に、ブルバキのような、ギッチギチに書かれた本のようなものは薦めず、まずは「博士の愛した数式」でも読んで、数学に興味がわいたら、次は、「世にも美しい数学入門」でも読むことを薦めたいと思うのだ。

 

 

例え、私のように、「性」の問題に正面から挑もうと思っていた人間でも、その道の権威ある文献というものを初めから読もうとすると、その厳密さのために、気分が悪くなってしまうのだ。

 私は、しかし、そういう気分が悪くなる体験もそれはそれで、必要だと思う。

 

 だから、数学を学ぼうという初心者への最良の助言は、「他人にどんな本を読んだらいいですか?」と、尋ねるのではなく、「自分で図書館や本屋さんの、お目当ての分野のところへ行って、自分で、自分のレヴェルにあった本を探していらっしゃい。」というものだと思うのだ。

 さらに、最初から一番良い本に出会えるとは限らないことも、教えてあげれば、もう言うことはないのだ。

 自分で新しい分野に初めて立ち向かう時、本を選ぶのはとても楽しいものである。この楽しさを、他人に選んでもらって失ってしまうのは、何とも惜しいことだと思う。失敗でもいい、自分で新しい分野に足跡をつけてくるというのは、本当に楽しいものなのである。

 話がそれたが、私がまず本屋で調べたのは、日本で、「性」の問題に悩んでいる若者に手をさしのべる本があるかどうか、ということであった。

 かなり色々見た中で、私が、これは誠実に書かれていて、誰にでも薦めて大丈夫だ。と思ったのは、村瀬 幸浩(むらせ ゆきひろ)著「恋人とつくる時間」(KKロングセラーズ) という本だった。今ではもう絶版になっているようだが、この村瀬さんという人は、こういう問題に真剣に取り組んでいる人で、一部の興味本位で「性」を遊ぶことしか考えていない人や、一部の頭の堅い人からの迫害のようなものも受けながら、きちんとしたことをしている人だった。

 

 

 

 


 この本を読んだ後いつだったか、「文藝春秋」だったか「中央公論」だったかで、この村瀬さんのやっていることを、冷やかしているような記事を読んだことがあったが、その記事を書いた人は、現代の情報の氾濫している時代の中で、若者たちの頼れるものが本当に必要とされているということが、分かっていないのだな、と私には感じられた。

 さて、「性」を学ぶことは出来ることが分かった。次は、恋愛観である。

 私の持っている本の中に、「恋愛論」という本は1冊だけある。世の中には、「恋愛論」という題名の本はかなりあるようだが、私が、これが本当に恋愛論中の恋愛論だ、と思っているのが、羽仁 進(はに すすむ)という映画監督の書いた本だ。

 

 

 

 私の恋愛観はこの本にかなり影響されている。私は、この本に登場する、「私には、すこしは自信のあるのは、セックスしかないわ」と口にする、誰とでもセックスするという女の人のような人と、結婚できたら幸せだと本当に思っている。

 生命誕生につながる行為についての私の迷いに、結論が出た今、これについて書くのは、今回が最後になると思うし、何度も書いても面白いものではないので、ここで洗いざらい書いておこうと思うのだが、私は、こういう女性と結婚したいと本当に思っているのだ。

 私はまだ結論が出ていなかった大学時代に既に、仲間達と発行していた雑誌に「ささやかな試み」として、私の考えていることを、発表したことがあった。

 当時の私は、まだ、生命誕生につながる行為をすると、何か特別のことが起こるのではないか、という疑念があったので、この文章は、非常に分かりにくいものになってしまった。

 私の現在の論文の第1稿が、まだその混乱から抜け出していないのも、私の悩みの深さを表していて、生々しい。

 この論文からは、この話題は完全に削除することにしたので、下書きだけで読めるものになることになった。

 私は、羽仁進さんの本を読む前から、新聞で、「童女」という題で、頭のほんの少しおかしいために、人を疑うということを知らず、周りの男の子達のいいカモにされていたために、親達が精神病院に閉じこめてしまったが、そこにいる人達が、「私達は、世の中の表も裏も見てきましたが、この女の子は、本当に心の綺麗な人です。こんな病院に入れておくべきではありません。」と言い出したという少女の話が書いてあったのを切り抜いて持っていた。

「男の子達が、みんな喜ぶのにどうしてしちゃいけないの」とあどけなく笑う彼女の前では、病院の医師も看護婦も言葉がなかった。という記事を読んで、こういう女の子をそのままに受け入れてあげられるような男性になりたいと思っていたのだ。

 羽仁進さんの本に出ている方の女の人は、頭はおかしいわけではないが、本当に誰の中にでも、一人の人間を見出していたのだ。

 ただ、問題なのは、こういう女の人というのは、どういう人を好きになるか分からない。全く予想がつかないではないか。だから、こういう女の人から、この人だけは特別の人なの、と言ってもらえる確率は低い。

 そこで私が考え出したのは、初めからこういう女の人ではなくとも、私が好きになった人が、こういう女の人になったらいいではないか、と言うことであった。

 大学3回生の時に好きになった女性は、誰にも人気のある人だった。だから私としては、この人に、二人の間にいいことがあったら、他の人にも分けてあげたい。というようなそんな考え方を持ってもらえないだろうか、と思ったのだった。

 これが本当のことであったことは、先に挙げた、「ささやかな試み」という私の文章を読んでみるとはっきりと分かる。私はその文章の冒頭に、そのことをまず第1に記しているからだ。

 その後の文章は混乱を来しているが、文章の冒頭だけは、簡単明瞭で、誰が読んでも読み間違えることはない。

 だが、この女性は、この私の試みを受け入れる気はなかったのだ。だから、私は、またいつか、誰からも人気のある女性、そう、中島みゆきの短篇集の10曲目に入っている「Tell,Me Sister.」に出てくる、

 

♪全ての男は彼女に夢中だった

♪全ての女さえ彼女には挑まなかった

 

 

短篇集

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というような女性に出会った時、この試みを話してみたいと思っている。羽仁進さんは、もう一人このような女性の例として、知人の女性から聞いたのだが、と言って、ダスティン・ホフマン主演の「小さい巨人」という映画をあげているのだが、その後、ヴィデオというもので映画が観られるようになったお陰で、私は見てみたのだが、羽仁進さんの期待していたものとは、ちょっと違っていたようだった。その後の後日談として、ここに書いておくのも、面白いだろう。

 私は、以前このブログのどこかに書いたが、女性の裸体が描かれている絵では、小倉遊亀という人の「浴女 その1」という絵が一番気に入っている。そもそもこの絵の主体は、女性の裸体ではなくお湯というか、水というか、要するにHOなのである。

 そこにさらりと添えられた淡い女性の裸体ぐらいが、私の好みの程度の、「性」のあり方なのだ。

 サルトルは性欲が弱かったという話を聞いたことがあるが、私も、誰かを好きになった時に嫉妬した場合を除けば、性欲に悩まされることはない。こういう幸せな男性だからこそ、上に述べたようなことも、出来ようというものだ。

 しかし、今すぐこれを実行しようとは思っていない。今はしばらくこの問題は寝かせておこう。私が物理や数学で人並みのことが一つ出来てから、もう一度この問題に帰ってこよう。

 私のブログからしばらく恋愛の話は消えることになるが、私というのは、今までに数えられないほどの女性を好きになっているので、あっちこっちにその姿は現れることだろう。

 ただ、性的関係を持った女性はいないので、「性」の話は、当分顔を出さないことになる。その方がいいのだ。私は解決したとは言っても、まだ実験的検証の得られていないこの問題に、完全にパスしたわけではないのだから。物理学者として、いつの日か、本当に心からこの女性と寝たいと思った女性と実験してみることになるだろう。結果を書くまで、このブログが続いているかは怪しいね。

 じゃ諸君。今日はここまで。

 現在2007年8月22日8時29分です。おしまい。


 注記:

 2011年12月8日4時09分、1カ所修正した。