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相対性理論を学びたい人のために

まだ一度も相対性理論を勉強したことのない人は、何か一冊相対性理論の本を読みかじってみて、なぜこんなことが?という、疑問を持ってからこのブログに来てください。

風に立つライオン

 現在2007年8月6日0時28分です。

 ここまで書いてみて、初めて、今日が、広島の原爆の日であることに気付いた。

 人間って、愚かなことをしてきたものなのだよな。

 わたしは、いつもブログを書く時、色々悩んだ後、結論が出て、前向きになってから、書くことが多い。

 だから、私が惨めな気持ちで、あれこれくよくよ悩んでいる、格好悪い姿は、現れてこない。ブログだけ見ていると、いつも前向きに色んなことに取り組んでいる、元気な刺激的な人のように思えるかも知れない。

 だが、それは私の一面でしかない。

 今日は、放送大学の試験も終わって、また日常の生活が戻ってきて、どうやって自分の生活を安定的に物理に向かわせるかで、悩んでいる姿をそのまま書こうかと思った。

 原爆だけでなく、戦争というあってはならないものを、人間達は愚かにも繰り返してきた。自分の愚かさ、というものを記録に残しておくというのも、無駄なことではあるまい。

 人生では、失敗して脱落するにしても、もう少しマシなところで止まらなかったものか、と思うが、そうは行かないことがあるものである。

 大学時代、私よりも数学が得意で、特に代数学の勉強が進んでいる友人がいた。私も数学が好きだが、物理も好きなので、かなり幅広く興味を持っているのだが、彼は、数学一筋で、大学1回生の時から、岩澤健吉の「代数函数論」を読んでいた、と言えば、その進みぶりが、普通でないことが分かる人もいるだろう。

 その彼は、3回生から飛び級で、大学院へ行った。その頃から、彼には、何か危ない部分が出てきた。数学で、一度やったことが、本当にそれをきちんとやってあったかどうか、気になる、というようなことがあるようになってしまったようなのである。

 もちろん、彼の場合、それは非常に高いレヴェルの話で、私なんかが分からないようなことも、十分に分かっていての話だったのだが、彼にとっては深刻なことだった。

 私が病気になって、中退した後、彼はどうなったのだろう、というのは、気になっていた。

 私が、インターネットで、苦労して見つけ出した親友とやっとメールのやりとりが出来るようになった時、その親友も、大学院の博士課程まで行ったのに、病気になって、中退していた。非常に残念だったのだが、彼は彼なりに立派に働いていて、今年の春からは、どこかの大学に、社会人入学しました。なんて言ってきたから、彼なりに夢を追っているのだろう。

 ところで、その親友に、数学の彼のことを聞いたのだが、彼は、大学院で、担当教官との折り合いが非常に悪く、それもあって、風俗店などの、常連となり、女性にお金を使うようになってしまったので、学業が続けられなくなり、中退して、サラリーマンになった、とのことだった。

 これは、私には、非常に残念だった。才能がどうだったかと言うことは、さておいても、数学が本当に好きだった彼が、普通のサラリーマンになっても、多分後で、後悔しただろうと思う。

 私はサラリーマンというのが悪い職業だとは思わないが、数学だけに命をかけていたような彼には、数字と触れあっていた大学時代が、どれほど、恋しいことだろう。

 私には、彼の気持ちが良く分かるのだ。

 彼のことを色々書いたが、これは私の今の心情を語りやすくするためでもある。彼にしても、担当教官との折り合いが悪いのなら、他の大学院に移るとか、専攻分野を変えるとか、色々方法はあっただろう。しかし、結果として、彼は数学を断念するような道に進んでしまったのだ。

 人生では、もう少しマシな選択は出来なかったものだろうか、と思うのに、よりによって最悪の方向に向かってしまうことがある。

 私も、自分の心が不安定になると、ついそんなことを考えてしまう。

 病気になるにしても、もう少し、せめて学部を卒業してから、なっていたら、良かったのにな。などとも考えてしまう。

 私の場合、悩み始めるきっかけは、いくらでも転がっている。

 この本を読み終えられていればなあ。とか、一つでも、きちんと勉強した分野があればなあ。とか。

 私の場合悩み始めると、それがそのまま、生きている理由を問うことになる。

 こんなに惨めなことになって、まだ生きている必要があるのだろうか。

 今から私が生きていくことに、どれだけの理由があるのか。

 昔、才能がある程度有ったかも知れないだけに、余計にそれを生かせなかった、自分が残念でしょうがない。

 などということになってしまうのだ。

 そうなのだ。これが一番私の辛い部分なのだ。

 音楽におけるモーツァルトのような本当に天才としての才能があったかどうかはさすがに自信がないが、心のどこかには、それくらいの才能があったのではないか、と思ってしまう部分があるのだ。

 だから、余計に、今という時間を最大限物理学に捧げていない自分が、許せなくなるのだ。

 だったら、今からでも、毎日毎日、必死で、物理の勉強をしてみてはどうなのか、と、問われるだろう。

 しかし、人間というものは、なかなかそう簡単に、路線変更できないのだ。これはいいわけ以外の何ものでもないが、大学にいた時のように、物理に情熱を傾け続ける、というのは、なかなか出来ることではないのだ。

 このブログを書いていること自体、非常な、時間の浪費だ。

 これを書いている時間に、物理の本を3ページでも読めば、それだけでも、前に進んだことになる。

 それをしていない自分が、腹立たしい。

 作曲家の千住明だったと思うが、

「才能と努力はかけ算なんだよ。」

と言っていた。私は、アインシュタインのような才能はなかったにしても、少なくとも、自分で、自分は才能が足りないなと思うようなほど、自分の才能がないのを感じたことはない。これは本当に幸せなことだ。自分にとっては、必要なだけの才能は揃っているのだから。

 だからこそ、努力すべきなのだ。もっと、もっと。

 かけ算の一方の才能は十分あるのだから、もう一方の努力を何倍にもすれば、結果は計り知れない。

 今、私は何をすればいいのか。その判断が一番難しい。

 今何をすべきか、と言うことほど、難しいことはないのだ。

 そして、その答えを上手く見つけられず、私は、布団に横になって、今更何が出来るのだろう。と、悔しくて悔しくて、自分がこれから生きていく意味を見失ってしまうのだ。

 この、今何をすべきか、と言う問いに応えるために、小学校の時の親友二人に会った日から、考えはじめ、7月30日の夜から、寝る前に、物理の雑誌、「パリティ」を少しずつ読むことにした。

 パリティは、年間購読しているのだが、届いた時、最新のニュースをざっと読むだけで、ちゃんとは読んでいなかった。

 これを読み始めて気付いたことは、世界には、こんなにも多くの物理学者がいるのか、ということだった。

 みんなそれぞれのアプローチの仕方で、物理をやっているのだ。

 私も私なりのアプローチの仕方で、何か、物理に対して働きかけられないものか。

 もうこれ以上書くのは辛い。

 数学と物理が好きで、才能もあった私。私はどうしたらいいのか。どう努力したらいいのか。

 これが分かるのなら、私はもうこんなブログなど書いていないで、それを実行しているだろう。

 もしかしたら、今回の投稿は最終回かも知れない。

 さだまさしの「風に立つライオン」という歌がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

さだまさし ベストデビュー30周年記念リマスター盤

♪空を切り裂いて落下する滝のように

♪僕はよどみない生命を生きたい

キリマンジャロの白い雪

♪それを支える紺碧の空

♪僕は風に向かって立つライオンでありたい

 

 

 そう、私も、風に向かって立つライオンでありたいのだ。

 今日はここまで。

 現在2007年8月6日2時23分です。おしまい。