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相対性理論を学びたい人のために

まだ一度も相対性理論を勉強したことのない人は、何か一冊相対性理論の本を読みかじってみて、なぜこんなことが?という、疑問を持ってからこのブログに来てください。

一人の大人として

 現在2007年7月7日1時21分です。

 2007年6月25日の「ホームにて」の投稿に対し、「名無しです」さんという人が、コメントを下さっていた。

 昨晩、それを読んで、とりあえずの返事を書いたのだが、私の中で、今日一日ずっとそのことを考えていた。

 まず私にとって、放送大学の卒業研究の担当の先生からのものに思えたことが、このコメントを生々しく感じさせていた。

 もし、それ以外の人からのものだったら、こんなに真剣に悩まなかっただろう。

 私が、このコメントを、あの先生からのものだと感じたのは、次の点があったからだった。

 一つは、

(まだ出来ていないことは、それが将来の夢でも公には主張しない方がよい。大人なのですから。かえって信用を失います。)

と、書いてくださっていた点だ。

「出来ることを主張しなさい。」

とだけ書いてあったのならば、他の人のおせっかいかな、とも取れなくもなかったが、

「かえって信用を失います。」

と、私に取って、今の状態がどう不利なのかをきちんと説明までしてくれるのは、私に対し責任のある、先生という立場の人からのものと、考えずにはいられないことであった。

 他にも、何点か、先生を思わせる文章があるし、最後は、

「成長を期待します。」

と結ばれていた。私には、この

「成長を期待します。」

という言葉が、非常に鋭く突き刺さった。

 確かに、大学も中退しているし、社会に出ているとは言っても、厳しい現実も知らない。私は、大人社会で、一人の大人として生きていくということが、どういうことなのか、まだ余り分かっていないのだ。

 もう35歳である。35歳にもなって、まだ大人としての自覚がない、というのは、恥ずかしいことであるが、これは確かに私の直面している現実であるのだ。

 今まで一度も社会に認められることをしたことがない。

 それが、私の現実である。

 認めてもらえないものだから、勝手に自分で自分の良さのようなものを考えだし、それを社会に認められたもののように思いこもうとして、このブログでも何度も同じようなことを書いた。

 ドロップ・アウトする前の私は、こんなだっただろうか?

 高校生時代、私はもっと謙虚だったはずだ。確かに科学者を目指していたし、自信もある程度はあったが、正17角形の作図法を発見する前のカール・フリードリッヒ・ガウスのように、自分が本当に科学者としてやって行かれるかどうか、まだ不安だった。

 むしろ大学に入って、授業に出なかったり、自主ゼミなどで、勝手に難しいことをやったりしていて、段々と数学や物理に自信をなくしてくるに従って、やたらと、周りの人達の数学の証明なんかの細かいことはどうでも良いから、とにかく試験で合格して、単位を取っていけば良いんだ、みたいな風潮が嫌になり、自分だけは、科学に対して誠実であったんだと、言わなければ気が済まないようになっていった。

 数学書でも物理学書でも、

「説明のわかりやすさのために、厳密さは犠牲にした。」

というような本は非常に多い。こういうのを見て、みんなは誠実にやろうとしていない、と思いこんでいたのは、私だけだったのだろう。

 研究者達の多くは、必死に研究しており、そういう本を書くだけでも精一杯なのだ、という、研究者達の本音が、私には分かっていなかったのだ。

 結局私も、研究者になったら、同じように、その日その日を必死に生きていかなければならない、見かけ上不誠実な科学者になっていったのだろう。

 「自然科学の良心」を標榜するのは、何もしていません、と言っているようなものなのだろう。

 先生の

「謙虚さを決してわすれないでください。」

と言う言葉の重みが、私には今やっと分かった。

 このブログは、私の唯一の外界とのつながりのようなものなので、閉じることはしないが、それを書くときの精神を改めていくようにしよう。

 謙虚な人のように振る舞いながら、本音は傲慢な人というのもいるだろうが、やはり人間、謙虚に振る舞おうとしていれば、段々と心も謙虚になっていくものだ。

 私に今必要なのは、まず外面から変えていくことだろう。

 外面を少しでも大人らしくしていくことで、少しずつでも内面も大人になっていってくれるよう、願うしかない。

 そもそも、私には、大人とはどう振る舞うべきか分かっていないのだから、先生から教わったことを、正しいことだと認識したのなら、それは改めるべきだ。教わったとおりにする必要はないが、自分でもその通りだな、と思ったのなら、変えるのをいとうことはあるまい。

 そういうわけで、このブログの私の自己紹介の欄は、書き改めることにする。

 今までのものは、ここに保存しておこう。いつか懐かしく思い出すこともあるかも知れない。

 

2007年7月7日までの自己紹介本文

 

EROICA

 

 

 

 

 

 

 

EROICA

 数学が恋人。物理が正妻です。
 「物理学の良心」と言われた、ウォルフガング・パウリのように、誠実に数学、物理学、化学、分子生物学に取り組み、「自然科学の良心」と、後世の人から、呼ばれるような、大科学者になることを目指しています。
 
 
 
 これからは、
 
EROICA
 数学が恋人。物理が正妻です。
 数学の勉強を大切にしながら理論物理学者となることを目指して、日々研鑽を積んでいます。
 

としよう。

 写真を入れるのも止めよう。私が本当に物理学者になって、有名になったのならともかく、今はまだ、写真を公開できるような、立派な業績を上げたわけではない。

 それが、謙虚に研究に励むということなのだろう。

 勉強スタイルも変えよう。大学で行き詰まってからの、全文写しというのは、やはり、無駄が多すぎる。確かに、「数学基礎概説」を、全部写したのは、自信につながったが、それだけだった。人生は、長いようで短い。もっと、多くのことに触れたいではないか。

 全文写しは、あの5年間で終わり。もう2度と繰り返すまい。

 もちろん数学の本などは、密度が濃い部分があるから、ノートを取っていると、ほとんど写しているようになってしまうこともあるが、無駄に鉛筆を走らせることは、以後2度とするまい。

 数学は好きだから、もちろんこれからも、数学書は読む。だが、ブルバキでも、写したりはするまい。

 結局写したことの成果は、

「読みました。」

という自信がつくだけなのである。もし挫折した本の場合には、無駄なノートの山が増えるだけである。

 愛読書No.2の「数学基礎概説」を全部写して、全部のギャップを埋めた、という記念碑があるのだからもう良いではないか。

 これからは、ノートは1冊だけにしよう。全部の本を、その1つだけのノートにまとめていくことにしよう。それが私の科学だ。

 私にとって大切なのは、

「ノートに書いたことではなく、私の頭で理解した、ということなのだ。」

という当たり前のことが、これからの私の科学の基準である。高校生時代までの私に戻ることになる。昔はそうだったのだ。

 卒業研究、一体何をやろう。四元数体の新しい性質を発見して、大喜びで、統一理論が出来るような気になっていたが、思い違いだったようだ。

 もう一度、虚心坦懐に、自分の出来ることを探してみよう。

 今日は、遅くなったので、ここまでにする。私の七夕の望みは、いつか物理学の真理を発見できるようになることである。

 現在2007年7月7日3時16分です。おしまい。