現在2006年8月9日21時10分です。
今日はガロアの方を進めよう。
昨日の投稿から、長い本文を常に表示するのをやめた。続きを読む、をクリックしたときだけ表示されるようにした。
今までは、こうして隠してしまうと、結局誰にも読まれないのではないか、と思って全部表示していたのだが、他の人のブログなんかを見ていても、面白そうなら隠されていても、見たくなるものだと感じたので、これからは長々と全文表示するということはしない。
それではガロアを進めよう。2ページの真ん中からだった。
広田 1811年10月25日、パリ郊外のブール・ラ・レーヌという村で生まれた。
1811年といえば、江戸時代も後期だな。
佐々木 翌年の1812年は、ナポレオンがロシヤ遠征に失敗した年だね。
広田 1815年には、座頭の高利貸禁止令が出ている。
佐々木 「必殺仕掛人」時代だね。
広田 お父さんは、そこの村長をしたこともある教養人だ。お母さんも、有名な法律家の家柄の出身だ。独創的で探求心のはげしい、つよい性格の人だった───と、いわれている。
ガロアの性格の一部は、この母親から受けついだものらしい。
しかし、父方にも母方にも、数学方面にすぐれた人物がいたという記録は、ないそうだ。
佐々木 突然変異だね。何時頃から、数学的才能を発揮しだしたの。
広田 1823年に、パリのルイ・ル・グランという中学校に入学している。ヴィクトル・ユーゴーも、この中学の出身だ。
読者の言葉)
ヴィクトル・ユーゴーといえば、「レ・ミゼラブル」の著者である。子供向けには、「ああ無情」と訳されている。
ところで、ユーゴーがこの小説を書いたとき、出版社に売れ行きはどうだ? と尋ねる意味で、「?」という一字だけを書いた手紙を送ったそうである。それに対する返事は「!」というものだった。
これが世界で最も短い手紙といわれているものである。
言葉終わり)
この時から、ガロアにとって初めての、学校生活が始まる。それまでは、お母さんの教育を受けていた。
1823年といえば・・・
読者の言葉)
モンロー主義とは、その時のアメリカ大統領 James Monroe が、アメリカとヨーロッパとはおたがいに干渉しあわないという主張をしたものである。
言葉終わり)
広田 シーボルトが来日した年でもある。
佐々木 入学して、どうなったの。
広田 退屈だったらしい。落第している。
佐々木 落第!?
広田 落第した学年で、初めて数学を聴講する。
佐々木 必修じゃ、ないのか。
広田 これが、天才数学者の誕生へとつながるから、人生は面白い。
佐々木 落第も悪くない!
広田 その時の教科書が、また、良かった。ルジャンドルという、一流数学者の書いた「幾何学原論」という本だ。
ガロアは、この本のトリコとなる。
よくできる生徒でも、ルジャンドルをマスターするには、普通2年はかかったそうだ。ガロアは、捕物帖でも読むように、一気に通読している。
佐々木 数学の魚が、水を得た。
広田 1827年───小林一茶が他界し、頼山陽が「日本外史」をあらわした年───の事だ。
佐々木 そこのけ、そこのけ、ガロアが通る。
読者の言葉)
小林一茶(こばやし いっさ)の俳句に
雀の子そこのけそこのけ御馬が通る
というのがあるのは、知っている人も多いだろう。
頼山陽は、らい さんよう と読む。
言葉終わり)
広田 ラグランジュとか、アーベルとかいった、当時の一流数学者の専門書や論文にまでも、手をのばし始める。1828年には、「循環連分数に関する一定理の証明」という処女論文を、数学の雑誌に発表している。
佐々木 それじゃ、数学の成績も満点だね。
広田 ところが、そうではない。中位だった。
佐々木 オカシイな。
広田 学校の成績評価とは、そういうものだ。天才を計る事は出来ない。
佐々木 僕の成績も、計れない。
広田 ガロアにとって、学校の授業はツマラなかった、らしい。教師や試験官に対して、わかりきった事をクドクドと説明するのは、ニガテだったようだ。
リシャールという数学の先生だけが、ガロアの理解者だったようだ。
今日はここまでにする。4ページの1行目まで行った。
現在2006年8月9日22時46分です。おしまい。