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相対性理論を学びたい人のために

まだ一度も相対性理論を勉強したことのない人は、何か一冊相対性理論の本を読みかじってみて、なぜこんなことが?という、疑問を持ってからこのブログに来てください。

順序に入り♪

 現在2006年3月14日7時59分です。

 今日解析入門Ⅰが、7ページの連続の公理の前まで進んで、[2]順序 のところが終わったので、そこまでのところを説明しておこうか、という気になった。お待たせしました。

 1月17日以来である。前回は2ページの問1が終わったところだった。2ページの下の5行に入ることになる。

 (R11)から(R16)までの性質は認めても良いだろう。これを認めると、体だったものが順序体(じゅんじょたい)となるのである。

 さて3ページに進むと

(1.0) a≦b⇔a<bまたはa=b

      (⇔は同値を表わす記号である。)

と書いてある。ここで私は注を入れた。

 

 読者注)

 同値とは、一方の命題が正しいならば他方も正しく、一方の命題が正しくないなら他方も正しくないことを意味する。

                    注終)

 

 「“正しい”とはどういうことだろう」と、大学1回生の半ば頃から2回生の頃、私は悩んだことがあった。証明できるものが正しいのだろうか。でも、まだ証明できてなくても正しいことはあるし・・・

 これは私の科学を襲った2番目に大きな危機であった。

 1回生の初め、1年浪人して4回受けてやっと通った京大で、私は嬉しくて、どんどん難しいことに挑戦していった。まだベクトル空間も知らないのに、裳華房の「代数概論」のゼミに出たり、内山龍雄の「一般相対性理論」を読んだりした。

 そのうちに、段々と自分がどこまで分かっていて、どこから分かっていないのか分からなくなってきてしまった。何を正しいとしたら良いのだろうか。

  正しいとはどういうことなのかを見極めなくてはならなかった。

 その頃、物理にも危機がおとずれていた。

 私が小学校の頃から憧れていて、大学に行ったら学ぼうと思っていた一般相対性理論が、完全なものではなく、隅々まできちんと数学的に厳密に理解できるものではないのかも知れない、という不安だった。

 これは私の科学を襲った最大の危機だった。

 しかし、それくらいのことで嫌いになれるほど、私は数学や物理と浅い仲ではなかった。私は数学や物理を信じていた。これは信仰のようなものだった。

信ずる者は救われる。

と言うが、本当である。私は自分でも一所懸命考えたし、文献もあさった。数学において正しいとはどういうことだろう、ということの答えを見つけるため、ブルバキを読んだり、一般相対性理論を理解しようと、日本語の一般相対性理論の本はほとんど眺めた。

 そして巡り合ったのが、私が愛読書に挙げている、「数学基礎概説」と「ホーキング・エリス」である。

 

 数学の方が先に危機を脱することが出来た。6月には「数学基礎概説」と出会えていた。

 数学において正しいものとはどういうものか、ということに対し、それは、命題を記号で表した時、それがベルナイス・ゲーデル(BG)の集合論の公理の記号から、絶対に矛盾することのないことが分かっている、変形規則(NK)を用いて導かれる記号であることである。というのが、当時の私の得た結論だった。

 正しいけれども、証明できない命題のこととか、否定の否定は肯定を証明したことにはならないというような、やっかいな立場があることは知っていたが、ひとまず危機は脱することが出来た。

 前世紀の数学者達も同じような感じだったのではないだろうか。ひとまず集合論が確立されてしまえば、不安は去り、それの発展型を追求することは、専門家に任せて、自分達はそれぞれの専門の数学に戻れるというわけである。

 現在、数学基礎論は人気がない。数学の叢書を見ても、岩波基礎数学には「集合と位相」という公理的集合論の本があったのに、今回の現代数学への入門や現代数学の基礎のシリーズには公理的集合論の本はない。

 今の若い数学者にとって、数学の基礎に不安がある、という意識は微塵も見られない。だからこうなったのだと思う。

 

 数学基礎論は面白いと思う。でも、爽やかで魅力的というわけではない。確かに、一階の述語論理の無矛盾性定理や、ゲーデルの完全性定理や、ゲーデル不完全性定理などの証明を読んでいくのはワクワクするし、証明を読み終わった後の達成感も他の数学と変わらないし、苦労して理解した定理には愛着も湧く。だが、今やっているのが数学か、と問われたとき、「そうだ!」と胸を張って言えるかというと、チョット違うような気がする。画竜点睛を欠く。

 そうはいうものの、私はその基礎に長い時間を費やしてきた。私には必要だったのである。だが誰でもが皆、同じ道を歩まねばならないとは思わない。どうすればうまく難所を通れるかを今の私は知っているからである。

 このブログでは、物理をやっていく人が必要なことだけを書こう。証明を知らなくても良いことは、これは証明を知らなくても良いと、書こう。物理をもっと学んで、余裕が出来てから、証明を読んでも良いこともあるのである。時間のある人は是非、「数学基礎概説」を読んで欲しい。ZF(ツェルメロ・フレンケル)ではなく、BG(ベルナイス・ゲーデル)の集合論の公理系は他の本では余り見られないが、強力なものである。だが、時間のない人の方が多いだろう。

 

 物理の危機は11月に去った。「ホーキング・エリス」で、一般相対性理論の数学的に厳密な、見事な説明を読んだからである。一年浪人したのは無駄ではなかった。浪人している間に、英語の偏差値を60くらいから80くらいにまでアップさせていたからこそ、ホーキングとエリスの名著が読めたのである。

 

 さて話がそれたが、命題が正しいということはどういうことだろうか。

 それにはまず、命題を記号で表す必要がある。記号で表せない命題は、数学的命題ではないとする。これはちょっと微妙な問題で、私達の使って良い記号で表せない命題というのがあるのである。そういう命題は、メタ数学的な命題として、別にどけておこう。メタとはそれを超えたというような意味である。

 例えば、「すべてのxは0以上である。」という命題は、∀x(x≧0)と表される。しかし、「Yは自分自身を含まないすべての集合の集合である。」という命題は、Y={z|¬(z∈z)}と表せそうだが、¬(Y∈Y)ならば、YはYの要素となり、Y∈Yが成立してしまう。それは矛盾だから、この命題は私達の記号では表せない。本当はこれは、メタ数学的な命題とも呼べないようなパラドキシカルな言明で、命題自体が矛盾している。

 本当のメタ数学的な命題とは、例えば、「私達が標準としている公理であるZFは無矛盾である」というような命題である。あなたこれをどうやって記号で表す? ちょっと出来なさそうだね。ゲーデル数というものを使って、トリック的にこれに似たことが出来るんだけど、私達の記号では普通に考えると出来ない。でも数学者が関心を寄せる命題ではあるよね。だからメタ数学的な命題だ。こういうものは、とりあえず考えないということだ。

 

 さて、命題が記号で表せたとき、これが正しいということを次のように定める。

 まず、公理として標準的と思われているものがある。さっき言った、ZFだ。これも記号で表されている。それから、記号の変形規則にも、標準的と思われているものがある。私のブログの読者なら知っているかもしれない、ゲンツェンのNKだ。

 公理からその変形規則を用いて導けるものだけが真な命題とするのである。つまり正しい命題だ。

 また、その命題の否定。簡単に言ってしまえば、否定記号¬を頭につけたものが、公理から導かれるとき、偽な命題とするのである。

 今、ある命題を記号の集まりで表し、その集まりをPで表したとしよう。例えば、∀x(x≧0)というのは一つの記号の集まりである。この時3つの場合がある。

 Pと¬Pの両方が導かれる場合。一方のみが導かれる場合。どちらも導かれない場合。

 まず、あるPについて、Pと¬Pの両方が導かれる時、その公理は矛盾しているという。

 公理ZFは矛盾していないと私達は思っている。もちろんまだ誰も満足には証明していないけれども。

 さて、すべてのPについて、Pと¬Pの一方が導かれ、かつ一方のみが導かれるとしたら、その公理は優秀で(完全で)ある。導かれるものの方を真な命題。その否定を偽な命題と、定めることが出来るからである。

 だが、自然数のような、有限ではない量のものを扱えるような公理の場合、どんなPについても矛盾しないなら、つまりPと¬Pの両方が導かれることがないならば、あるPが存在して、Pも¬Pも両方とも導かれないことが起こる、というのが、ゲーデルの第1不完全性定理の証明していることである。

 つまり私達に出来るのは、せいぜい矛盾しない公理を作ることである。完全な公理は作れない。では、矛盾しない公理を作れたとして、それが矛盾しないことを証明できるだろうか。不可能ではない。だが、私達が初めに定めた、記号の変形規則だけを使って、導くことは出来ない、ということを証明しているのが、ゲーデルの第2不完全性定理である。

 

 紛らわしいので言っておくが、ゲーデルの完全性定理というものもある。これは、論理的に真な命題、つまり、公理がなくても真であることが分かっているような命題は、記号の変形規則だけで導き出すことが出来る。という定理である。例えばPを一つの命題とするとき、P∨¬P(「PまたはPの否定が成り立つ」と読む)は、公理がなくても、記号の変形規則だけで導き出すことが出来る、というのである。

 ものは試しだ、大芝猛著「数学基礎概説」を図書館で開いて、27ページを見てみよう。ちゃんと導き出されている。ただしこの場合は、PではなくAだが。もちろんこれがちゃんとした証明の図になっていることは皆さんにはまだ検証できないだろうが・・・。

 これは、∀や∃を考えない、命題論理の範囲では、「トートロジーは証明できる」と言い換えることができ、比較的簡単に証明できるが、∀や∃を含む述語論理では一つの大定理となる。この場合、論理的に真な命題は、トートロジーと呼ばず、ヴァリッドまたは妥当と呼ぶことになっている。もちろん、論理的に真な命題、と呼んでも構わない。

 論理的に真な命題はすべて導ける、という意味で、一階の述語論理は完全なものである、というのがゲーデルの完全性定理である。証明されたのは、不完全性定理より1年先である。余り有名ではないが・・・。

 有名ではないけれど、これはやっぱり大定理である。なぜなら、ZFからある命題Pが導かれるということは、ZFを表している命題をZとするとき、Z⇒P(「ZならばP」と読む)という命題が、公理なしに証明できるということである。本当は、ZFは10個の公理からなるので、ZからZ10までの公理を用いて、(Z∧Z∧・・・∧Z10)⇒P(ゼット1かつゼット2かつ・・・かつゼット10ならばPと読む)と表される。

 実はここには大きなギャップがある。ZからPが導かれたときZを仮定しなくてもZ⇒Pが導けるというのは本当は証明のいることである。また、ZFは本当は10個の公理だけでは済まされない。正確に言うと、BGは18個の公理だけで有限公理化可能であるが、ZFは有限公理化不可能であるということが立ちはだかる。

 だがそういうことが全部証明されたとして、これが公理なしに導けるということは、これが論理的に真な命題であるということである。

 結局私達が、数学で正しい命題と思っているものは、みんなこの形の論理的に真な命題として記号で表されるのである。有名なピタゴラスの定理だって、代数学の基本定理だって、そうである。だから、私達が探しているのは、論理的に真な命題であり、これは「解析入門Ⅰを読んでいるだけで十分勉強になる」という題の今年の2月18日の投稿で、論理的に真な論理式と言っているものに一致する。だからあの日に分かったことは、すべてここにも当てはまるのである。

 そのことを保証するのが、論理的に真な命題はすべて記号の変形規則だけで導ける、という完全性定理なのである。どうだい、やっぱり大定理だろう。

 ちなみに完全性定理の逆、公理なしで記号の変形規則だけで導ける命題は、論理的に真な命題であるということも、本当は証明のいることである。そして、それはちゃんと証明できることなのである。ご心配なく。

 

 さて、ZFが矛盾しているかも知れない、という異論をはさむことは出来る。また、記号の変形規則を変えようと試みるかも知れない。そうやって色々試みても、出来ることは、最高でも、ZFが無矛盾であるということを、有限の立場という、きわめて厳しい禁欲的な立場で証明することである。

 現代の数学全体を転覆させるようなことは出来ない。例え現在標準的とされている公理ZFあるいはBGが矛盾していることを証明できたとしても、現代の数学はほとんど無傷のままである。それくらい、数学において一度証明されたことというのは、揺らがないものである。私が厳密な証明にこだわるのは、こういう重みがあるからなのである。

 

 ところで、第1不完全性定理が言うところのPも¬Pも導かれない命題Pがあるというその命題Pは、真なのだろうか、偽なのだろうか。

 ここまで来てやっと、シンタクティカル(構文論的)な定義と、セマンティカル(意味論的)な定義というものの違いについて述べることが出来る。

 私達は、命題の真偽を定めるに当たって、公理を正しいと認め、記号の変形規則を正しいと認めただけで、記号の変形という、意味を考えないもので、つまり途中では正しいかどうかを判断しようがないもので、命題の真偽を定義してきた。

 

 これに対し、それと平行して、常に意味を考える定め方、というものを考えることが出来るのである。それには、常に記号に具体的なものを割り当てていくという方法が取られる。

 例えば、∀x(x≧0)は、xが実数を動くとすると、偽であるが、自然数を動くとすると真である。この時、ある決断をして、xは自然数の集合を動くものとする、というように具体的に定めてしまうのが、意味論的なやり方である。そうすると、そう定めている限り命題の真偽は確定する。一方xが実数の集合を動くと定めた場合、∃x(x<0)ならば、実際に、xとして、-1や-2がある、というように、具体的に割り当てられるとき、真であると定める。

 この様に記号に意味をつけるとき、何でもかんでも割り当てて良いわけではない。構文論的な定義で真なものは真になるように、偽なものは偽になるように定めるのである。構文論的な定義と矛盾しないように定めて行かれるということを保証してくれる定理もある。ヘンキンによるモデルの存在定理である。

 偽なものは偽になるように、というのは変な言い方だが、¬∃x(x∈x)が真ならば、∃x(x∈x)は偽なのであるから、この場合には、xに割り当てるものはないということである。間違って1を割り当ててしまうと、1∈1という命題が得られるが、これは偽な命題と、意味を定めるのである。

 

 公理を定めたときにそれに矛盾がなければ、まず構文論的に、真偽の定まる命題がある。そしてそれに覆い被さるように、意味論的に、命題の真偽が定まる。

 これを見て分かるように、意味論的な定義には、少し遊びがある。構文論的に真偽が定まっていない命題について、どちらかを選ぶ自由がありそうだ。

 具体的に例を挙げると、∀x(x=x)は構文論的に真と分かる命題である。これに対し、∀x(x≧0)や∃x(x<0)は意味を定めて初めて真か偽かが分かる。先程もいったように、xが実数を動くと定めれば実際に-1や-2を取れるので、∃x(x<0)は真だが、∀x(x≧0)は偽になるし、自然数を動くと定めれば∀x(x≧0)は真だが、xとしてx<0となるものを割り当てられないので、∃x(x<0)は偽となる。

 これはやっかいなように見えるが、同時に数学を豊かにもしている。つまり意味の付け方に何通りかある、ということである。

 このように矛盾がないようにちゃんと意味をつけたものを、公理のモデルと呼ぶ。先程のモデルの定理というのは、正確に述べると、第一階の理論Sが無矛盾であるならSの可算モデルが存在する。となるが、一階とか理論とか可算という言葉に今は惑わされないほうが良い。厳密なことを言いだすと=の記号だって、=の意味を持たないようにしてしまうことも出来るのだから。

 

 さてここまで来てやっと、正しいとはどういうことか、という問いに答えることが出来る。

 まず、公理を定めただけで、正しいかどうか分かるものがある。これが構文論的に分かるものである。次に、モデルを定めることにより、正しいかどうか決まるものがある。自然数だけで考えるのか、有理数まで考えるのか、実数まで考えるのか、という範囲の問題もあるし、一つ一つの数の割り当てまで考えていくと、モデルは無限にある。だから正しいかどうかもまちまちである。しかしひとたびモデルを定めたら、その瞬間ビシーッとすべてのことの正しいかどうかが定まる。

 モデルを定めると正しいかどうかが定まるというより、実数のような一つの具体的なものが定まるとその性質として、すべてのことが導かれるようになる、と思った方が本当は分かりやすい。具体的な小数で表される実数というものは、実数の公理を満たす一つのモデルなのだ。ここで。実数の公理といっているのは、解析入門Ⅰの実数の性質(R1)から(R17)のことである。

 

 そして、一番簡単な素朴なモデルを標準モデルと呼ぶ。これに対し、非標準モデル(ノン・スタンダード・モデルと英語で言うので、直訳すればこうなるが、普通は超準モデル)が存在する。

 私達は標準的な解析もまだちゃんと学んでいないので取り組めないが、超準解析というものは、この遊びを利用したものである。実数の公理を全部満たす超準モデルというものがある、というのは、「この十七個の性質を持つ数学的対象は本質的には以外にはなく、」という本文第1ページの言明に早くも反しているようだが、大丈夫である。これこそゲーデルの第1不完全性定理の言っていること、「公理からPも¬Pも導けない命題Pがある。」ということの表れなのである。

 肯定も否定もできないところでのみ実数体と異なっている超実数体*(スター・アール)。なんとも魅力的ではないか。これについてもっと早く知りたい人は、

超積と超準解析―ノンスタンダード・アナリシス

 

無限小解析と物理学

 

 

超準解析とファインマン経路積分 (数学基礎論シリーズ)

超準解析とファインマン経路積分 (数学基礎論シリーズ)

 

 

超準解析と物理学 (数理物理シリーズ)

 

超準的手法にもとづく確率解析入門 (すうがくぶっくす)

 

超準解析

超準解析

 

 

無限小解析の基礎―微積分の新手法

 

などの本を読まれることを勧める。私も後から追いかけるつもりである。

 ニュートン力学だけを知っていた状態から、アインシュタインの相対論的力学を知ると、世界が変わるように、超準解析を知ると数学が複眼的に見られるようになる。

 しかし、初めから相対論を学べないのと同様、初めから超準解析を学ぶのは無理である。そんなことをすると、標準的な微積分の微妙なところを捉え損なってしまう。イプシロン-デルタ論法というのは、あれはあれで強力な証明法なのである。標準解析を学んでおけばおくほど、超準解析を学ぶとき、恩恵を被ることになる。慌てない、慌てない。

 

 (1.0)まで到達したが、それを証明するところまでは行かなかった。「正しい」、ということの概念をじっくりと味わったのだった。今日はここまで。

 

 現在2006年3月14日21時18分です。おしまい。