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相対性理論を学びたい人のために

まだ一度も相対性理論を勉強したことのない人は、何か一冊相対性理論の本を読みかじってみて、なぜこんなことが?という、疑問を持ってからこのブログに来てください。

解析入門Ⅰを読んでいるだけで十分勉強になる

 現在2005年2月18日4時26分です。

 16日の夜から17日の朝にかけて、また17日の夜から、今にかけて、解析入門Ⅰの附録の述語論理の項のギャップを埋めようとして、安井邦夫著

現代論理学
と、大芝猛著

数学基礎概説
を何度も読み返した。今まで分かっているつもりでいて、分かっていなかったことがいっぱい見つかった。

 その代表例がこれから述べること。

 

 私は、「数学基礎概説」の第3章 完全性定理 の構造とかモデルの説明が、具体例に乏しくなかなか分からなかった。2001年にやっとこの部分が分かるようになった。この本に出会ったのが1992年なので、分かるまでに9年かかったということがノートから読み取れる。しかし、それでもまだ、完全には理解していなかったようだ。

 今回私のブログを見て分かるとおり、真偽という概念を理解するのは容易なことではないのである。数学の命題を表すのに論理式というものを用いる。例えば、∀x(x≧0)というのは一つの論理式だ。これについて、真偽というものをどう割り当てたらいいのか。xが自然数ならこの論理式は真である。でも、xが実数なら、この論理式は偽である。

 

 私も今回一度、述語論理について真という概念を定義するのを諦め、AとBの真偽が一致するというのをA⇔Bが証明可能ということで、代用しようとした。

 だが、「現代論理学」を何度も読み返してみて、「数学基礎概説」で分かりにくいままになっている、“論理的に真な論理式”(または妥当、英語ではvalid)という概念と、論理的に偽と言って良さそうな、“矛盾した論理式”(英語ではcontradiction)という概念との他に、“充足可能な論理式”(英語ではsatisfiable)というものがあることを知った。上の∀x(x≧0)は充足可能な論理式なのだ。

 

 ところが、これはこれで問題を起こした。一階の述語論理の体系NKと呼ばれるものがある。正しい論理式だけを証明できる法則をまとめたものだ。ここで、正しい論理式とは、論理的に真な論理式のことである。

 そして、NKでは、任意の論理式Aが与えられたとき、それを証明できるか証明できないか有限の時間で決定することは一般に不可能、という決定不可能性というものが、チャーチのテーゼという仮説の基に証明されている。

 これを理解しようと思ったとき、じゃあ、真ではないが充足可能な論理式がある、ということを言えば、決定不可能な論理式、つまり、正しいことも証明できないし、正しくないということも証明できない数学的命題があるということになると、早合点したのだ。

 

 だが、決定不可能性というのは、そんなに生やさしいものではなかった。私達が数学の命題を論理式で表したとき、それが運良く論理的に真な論理式ならば、完全性定理により、一階の述語論理の体系NKで証明できる。だが、論理的に真な論理式でなく、しかも論理的に真な論理式でないということが人間にはどうやっても証明できない論理式であった場合、どうしようもないわけである。そして、実際そういう論理式が存在する。というのが、決定不可能性の定理の言わんとしていることなのだ。

 

 つまり真ではない充足可能な論理式の中には、真ではない充足可能な論理式であるということを証明できないものがある。ということまで言わなければならなかったのだ。私の早合点はそこで修正されるわけだ。そしてそれが実際言える。

 ここで、人間にはどうやっても証明できないということの意味は重要である。NKで証明できないのではなく、人間には証明できないのだ。だから未来永劫誰にも証明できない。

 

 論理的に真な論理式だと思っていたものが、実はそうでなかったらどうしよう。そう疑って、論理的に真な論理式ではないということを証明しようとしても、未来永劫誰にも証明できない。そういう場合があるのである。

 

 数学とは恐ろしい学問だということが、これで良く分かる。私達がやっているのは、論理的に真な論理式を探すことなのだ。そして、証明が出来た場合だけ、それが論理的に真な論理式であることが分かる。正しい命題の証明に苦労するというのなら分かる。でも、本当に苦労すべきことは、正しいということを見抜くことの方にあったのだ。

 

 正しくない命題には、どんなにがんばっても証明は付けられない。そんなの当たり前だと、数学の出来ない人は言うだろう。正しくないことにいくらがんばったってものにはならない。それは人間社会では当たり前だ。そして、がんばった後で、あれは正しくなかったと分かることは人間にはままある。だが、数学では、その見返りすらないのだ。

 

 正しくない命題の中には、正しくないということすら、誰にも後になっても未来永劫分からない(証明できない)ものがある

のだから。

 

 数学の出来る人というのは、正しくない命題にはどんなにがんばっても証明は付けられない、ということを当たり前とは思わない人である。そのことの重みを知っていて、決して正しくない命題には手を出さず、正しい命題をその美的センスによって見いだし、証明してみせるのが、本当に数学の出来る人である。

 

 私は今晩この真理の前に初めて立った。そして思い出していた。アブダス・サラム著

究極の宇宙法則
に訳されているヴェルナー・ハイゼンベルグの講演の最後の言葉。

 

 ニールス・ボーアがよく言っていたことを思い出します。

 「もし正しい説があったとしたら、その反対の説はもちろん間違っています。しかし、深遠な真理があったとしたら、その反対もやはり深遠な真理かも知れないのです。」そこで私は、深遠な真理は「困難は一つずつしか解決できない」ということだけではなく、「困難は一つずつでは解決できない、多数の困難を同時に解決しなければならない」のでもあると思います。この言葉で私の話を終わらせていただきます。

 

というものだ。

 

 数学の出来る人というのは、正しくない命題に手を出さない人というのが真理なら、その反対、正しくない命題にも手を出す数学の出来る人もいる、というのも真理なのだと、私は感じていた。恐らく天才というのは間違いを恐れない人達だろう。そうであってこそ、新しいことを見つけられるのだ。

 論理的に真な論理式ではないかも知れない。などと恐れているのはよそう。それが論理的に真な論理式だと信じたら、諦めないで証明しようと努力し続けよう。アイディアの湧く限り、挑戦し続けようではないか。

 私の今日の投稿はこれで終わることにする。「現代論理学」もまた、私の大切な愛読書となった。

 現在2006年2月18日7時06分です。おしまい。