現在2008年10月22日18時04分である。
今日は、ちょっと変わった話をする。
ある意味、精神異常者の妄想だとも捉えられ得ることである。
だが、私には、この世界が、多くの人が普通に考えているような世界とはちょっと違うのではないか、という気がしてならないので、それを書いてみようと思う。
はっきり初めに言っておくが、ここに述べることは、私が感じていることをそのまま書いただけであり、今のところ、科学的根拠となるものはほとんど無い。
今日の話を次の童話を思い出すところから始めよう。
何という題名だったか忘れたが、小さい頃に読んだ童話で、ある正直なきこりが、鉄で出来た、斧を持って森に入り、木を切っていた、という出だしから始まる童話だった。
そのきこりは、手を滑らせて、斧を池に落としてしまう。
そうすると、水の中から、妖精が出てきて、金の斧を 見せて、
「あなたが今落とした斧は、これですか?」
と、尋ねる。正直なきこりだったので、
「いや、私の斧は、それではない。」
と答える。
そうすると、再び妖精が現れて、今度は銀の斧を見せて、
「あなたが今落とした斧は、これですか?」
と、尋ねる。今度もきこりは、
「いや、それではない。」
と答える。
3回目、妖精は、鉄の斧を持って現れ、
「あなたが今落とした斧は、これですか?」
と、尋ねる。この時になってきこりはやっと、
「はい、それが私の斧です。」
と答える。
そうすると、妖精は、
「あなたは、正直なきこりですね。この3つの斧を全部差し上げましょう。」
と言って、3つの斧を全部くれる、という話である。
要するに、子供に、正直に生きなさい、と、教えるための童話なのだが、こういう童話を読んで育った大人の多くが、大人になってまで、そこまで、いつも正直に生きられるものではない、ということを気付いていく。
だが、この世界というものは、正直者が、馬鹿を見るような世界なのだろうか。
確かに、ニュースや新聞を見ていると、まだこれから人生が始まったばかりというような、小学生や幼児が、誘拐されて殺されたり、偶然大金を拾って、それを警察に届けたら、持ち主が現れて、結局、自分の懐には、ほとんどお金が入ってこなかった、というようなこともあり、この世は、不条理なことがまかり通っているようにも見える。
食品の生産地の表示の偽装や、毒物の混入、不正な経理操作など、悪いニュースばかりが、並んでいるように見える。
まるで、この世界では、不正を働くのが当然で、正直に生きていると、ワーキング・プアと呼ばれるような、働いても働いても、生活が苦しいままだ、というのが当たり前のように、感じられないでもない。
不正とまでは行かなくても、何か、多少ごまかしをしたり、適当なところで、妥協するのが、賢い生き方のように見えなくもない。
だが、本当にそうだろうか?
これから書くことは、一回読んだだけでは、すぐに分からないかも知れないが、自分の体験などを思い出しながら、何度か考えてみると、
うーん。もしかして。
と、思い当たることがあるかも知れないことだと思う。
ここで、私は、ある意味、マッド・サイエンティストのようになって、次のような、仮説を述べたいと思う。
仮説
私達の世界は、普通の人が考えているように、一本の歴史の流れに乗っているのではなく、一人一人、生きている世界は違うものであり、それぞれの人が、自分の世界の主人公であり、世界は、その人が、望むように、少しずつ変化していくものだ。
しかし、世界には色んな人がいるのは、確かであり、また、宇宙開闢以来の歴史というものもある。
人と人とが出会って、しゃべっているとき、話題にしている歴史は、同じものになっているようだが、実は、巧妙な科学的仕掛けがあって、それぞれの持っている歴史は、異なるのだが、しゃべっている内容は、上手いこと整合するようになっている。
この仮説は、こう書いただけでは分かりにくいと思う。もっと具体的に書かなければ、分からないだろう。
例えば、1つ例を挙げると、
ある中年の男性が、小学校1年生くらいの女の子を誘拐して、そのまま殺してしまったとする。
この時、その中年男性の世界では、女の子は自分が殺したことになっており、当然逮捕もされて、場合によっては、死刑になるかも知れない。
だが、その時、その女の子の世界、という別な世界があるといいたいのだ。
その女の子の世界では、自分は殺されていなくて、正常に生きていて、ちゃんと、大人になり、人生を全うする。
女の子の父母にとっても、女の子は死んだことにはなっていなくて、ちゃんと親が楽しみにしていた成長をしていく。
そんな無茶苦茶な話があるか。事実は一つだ。
と、あなたは反論するだろうか?
あなたは、自分の人生の経験を引き合いに出して、私のような、うますぎる話は、実際はウソだ、と、言い切れるだろうか。
ここでもう一度、自分の心に正直になって、
「真実はどちらだろう。」
と、問い直して欲しい。
ここで、余り物理の話を持ち出したくはないのだが、物理的に見て、私達人間が、生きている、ということ自体が、ある意味、奇蹟的なことなのである。
その奇蹟を考えるとき、これから成長していって、どんな未来を歩むか分からない、小学校1年生の女の子が、殺される、なんていうことがあって、良いものだろうか。
むしろ、これだけ奇蹟が起こっているのなら、この世界が、それぞれの人にとって、自分が主人公の、大切な自分のための世界なんだ、という可能性を疑ってみないかい?
以前新聞で読んだことがあるのだが、韓国の女性だったと思うが、まだ女性の貞節というものがものすごく重要視されていた時代であり、その時代に、日本兵に、性的暴行を受けたために、処女ではなかったので、まともな結婚が出来ず、子持ちの男性と、お見合い結婚をして、何十年も暮らしたが、一度として、その男性を好きだと思ったことはなかった。自分の人生は、惨めなものだった。
というようなことが書いてあった。
私は、これが作り話だとは思わない。その女性は、本当に、惨めな人生を送ったのだろうし、辛かったのだろうと思う。
だが、私はその何十年かの人生が、全部灰色に塗りつぶされてしまったのは、その女性にも、原因があるように思えるのだ。
何十年も連れ添って、一度として好きだと思ったことがなかった。
という、その女性。本当に、幸せに生きようと強く思ったことがなかったのだろうか?
もし、私がその女性のような立場に置かれたとしたら、恐らく、初めの何年間かは、その男性を嫌っているかも知れないが、次第に、その気持ちを、他の方に、向けていくと思う。そして、自分なりに、自分の人生を楽しめる方法を考えると思うのだ。
これは、今まで王子様のように、幸せな生き方ばかりしてきた、私だから、考えることなのだろうか?
私にはそうは思えない。
やっぱり、人間、自分の人生というものは、幸せに出来る権利を持っているように思うのだ。
ただ、そこで一つの問題が持ち上がって、諸君は、反論するだろう。
他の人にとって、利益になることが、自分にとっては、不利益になる場合があり、結局、どちらかがいやな思いをするはずだと。
それに対する私の解答が、最初に挙げた、仮説なのである。
他の人にとって利益になることが起こっていて、自分にとっては、不利益になっているはずなのに、自分の世界では、そのことが、実際には起こらず、不利益を被らないというように、世界は出来ているんだと。
そして、もう一つ強調したいのだが、自分の世界というのは、自分で努力しないと、良くはなっていかないものであり、また、一朝一夕に変わっていくものではないということである。
その人の世界というものは、その人が生まれ落ちて以来、少しずつ少しずつ、形を整えていくものであり、その人が本当に、自分は正直に生きよう、と、あの童話を読んで思ったとして、その意志を、大人になっても、貫いたとすると、その人の世界では、正直な人が、正直に生きて行かれる世の中になっていくのである。
私としては、以上述べたことに対して、実験的証明は出来ない。だって、世界は、一人一人違うのであり、私の言っていることが通用するのは、私の世界でだけだからかも知れないからだ。
しかし、私のこの考え方は、私が、何度も何度も、悩んだ末に、次第に形作られてきたものであり、今日パッと、思い付いたという代物ではない。ただ、こういう形で、はっきりと文章に出来たのが、今日が初めてだ、ということなのである。
私の尊敬する物理学者の一人、リチャード・フィリップス・ファインマンは、本当に、一生の間に数えるほどのウソしかつかなかったと、自分でも言っているし、周りも認めている。
その彼の周りでは、世界が、彼のために回っていたのだろう。
私は、ファインマンほど、ウソをつかない人生を送ってきたかというと、残念ながら、ハイとは言えない。
今までに、かなりたくさんのウソもついてしまったし、周りに流されて、不正を働いたこともあった。だから、私の世界は、ファインマンの世界に比べると、生きにくいものになってしまっているかも知れない。
しかし、人生は、例え今日からでも、生き方を変えようと思えば、少しずつだが、変えられるものだと思える。
この少しずつというところが、重要なのであって、決して焦ってはいけないのである。ちょっと努力してみて、
ああ、やっぱり世界を変えるなんて無理だよ。
と、諸君が思ったとしても、そんなに慌ててはいけない。少なくとも、1年間は努力しなければ、世界なんてそんなにどんどんとは変わらないのである。
この分かりにくい話を、物理的に証明して、この世界の本当の謎を解いて、誰でもが、自分にとって、良い世界を生きられるようにしてあげたいのだが、私の力は、まだそこまで及ばない。
今は、この文章で、社会の人に、訴えることくらいしかできない。だが、私は、希望を失ってはいない。
この妄想のような考え方を、このままではないかも知れないが、実際に科学として、扱えるところまで、持っていきたいものである。
今日はここまで。
現在2008年10月22日20時01分である。おしまい。