相対性理論を学びたい人のために

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我が父に捧ぐ6

 第6章 どのように気が狂ったか


 誰もが一番読みたいところであろう。

 私は高校3年の時恋をした時、色々悩んだ。このまま打ち明けずにいて、京大に受かってから、打ち明けようか、それとも、今告白して、うまくいけば、カップルになり、お互い励まし合いながら、京大を目指そうか。

 そして悩みは、私が告白することにより、彼女をびっくりさせてしまい、彼女が受験に失敗したらどうしようか?と、発展した。

 ここで私は、一つずるいことを考えついた。私は、将来必ず物理学者になって立派なことをする。だから、彼女が受験に失敗するかも知れないのを考慮に入れた上で、思い切って告白してみよう。


 私は彼女を犠牲にしたのだった。


 私は、

「自分勝手なこと言って悪いんだけど。あなたが好きです。」

と、告白した。

 私は彼女がびっくりするだろうと思っていた。だが、彼女はさしてびっくりもした様子がなかった。

 びっくりしたのは私の方だった。




 そして、重要なことなのだが、この告白した日以来、私は、学校で自分のことを噂されているような気がしだした。

 例えば、学校で、私が席に座っていると、後ろの方の席で、女の子の一人が、

「あの人告白したんだって。相手は、あっちの人」

などと言い、それに応えて、

「綺麗な人だね。(やっぱり綺麗な人は得するのね)」

という返事が聞こえてくる。

 私が告白した彼女は、学校で一番カワイイと言われていた子だったから、この会話は幻聴でなかったとしても、おかしくはない。

 しかし、私には、こういうことがしばしばあり、また、家では、母に、日記を盗み見られているのではないかという妄想が生まれ、母が、本当に見ていないかどうか、日記の上に髪の毛をのせておいたこともあった。

 だが、この頃の私は、まだ正常な状態にあったので、これらのことを、私の妄想で感じられていることだと、はっきり認識していた。

 つまり、それらのことを、真に受けてはいなかったのである。



 そして、恋愛なんて全く無経験だった私は、告白した後返って気まずくなってしまい、カップルにはなれなかった。

 私は彼女を犠牲にした。という罪悪感のため、自分が許せず、心の中は空っぽだった。

 浪人した。彼女も浪人した。

 私にとって、浪人生活は辛いものではなかった。ずつと彼女のことを考えていたからだ。


 この浪人中も、私には、周りの友達たちが、私と彼女の関係を知っていて、それとなく彼女を話題に乗せているように感じていた。

 たとえば、友達の一人が、

「あの女の子が、『私、河合塾のチューターとつきあっているの、車で送り迎えしてもらっているのよ、許せる?』なんて言ってたぞ。」

などと、私をあわてさせようとするかのような話題をふるのだ。

 私は、友達たちが、私と彼女との間を取り持とうとしているのじゃないかと、妄想した。

 だが、この段階でも、私の精神は正常で、これらは、私の頭の中だけの妄想だと判断していた。



 そして、春。二人とも、志望校に合格した。

 私が広島と京都の間を往復している間に、彼女から家に電話があった。

 夜電話してくると言っていたのに、なかなか電話がない。

 私の方から電話したら、彼女の母親が出てきて、

「今、親戚の人が見えているので、後で電話するそうです。」

とのことだった。

「何を焦らしているのかなあ?」

と疑問に思いつつ2日が過ぎた。それでも電話はなかった。

 私は、

「ちょっと、会ってくる。」

と言いおいて出かけようとした。その時、父もいたのだが、父と母と二人で、一所懸命行かない方がいい、と言いだした。

 私には、会いに行く理由なんてせいぜいこの間の電話何だったの?と聞いて、お互いがんばろうね。と、別れる位のものだったから、なぜ父母が止めるのか分からなかった。

「お前にはプライドというものがないのか?」

とも言われたが、私の辞書にプライドと言う文字はなかった。




 結局その日は、

「お父さんとお母さんがそんなに言うのなら、今日は会いに行かないよ。」

と言った。

 この瞬間、父はホッとしたのだろう。

「あー疲れた。」

という表情を浮かべた。

 だが、その表情を見て、私は、

「アレッ、なんか父をがっかりさせてしまったみたいだな。」

と、直感的に思った。

 本当はこの日、私と彼女を会わせる計画が立てられていて、父と母が会いに行くのを止めたのは、私にそれなりの決心をさせた上で、送り出してやろう、ということだったのではないか。それなのに、当の私が、会いに行かないなんて言ったものだから、がっかりしてしまったのではないか。

 そう思えたのである。

 そして、それと同時に、人間の男女の恋愛では、周りの人が、色々と支えてくれるものなのじゃないか、という妄想が起こり、それにつられて、浪人中に友達たちが、私と彼女の間を取り持とうとしているのじゃないか、という妄想が起こったが、あれは、妄想ではなく、本当のことだったのではないかと、価値の転換が起こってしまったのだ。

 父母が、間を取り持ってくれようとしたのに、私は、彼女を捨ててしまった。なんとかこれを修復できないかと、彼女を私は好きなんだとアピールしようと、独り言で、彼女の名前を言ったりしてみた。

 この独り言を言っている私を見て、父と母は心配し、後でも触れるが、京大病院の精神科へ私を連れて行った。だが、この段階では、まだ病気は軽く、中山先生という精神科のお医者さんは一応精神分裂病の薬(そうだということは、後で分かった。)を処方してくれたが、

「つらかったら、飲め。」

などと、真剣に取り合わなかった。

 私は、妄想が妄想でなかったのか、それとも、やっぱり妄想だったのかで、揺れていた。正常と異常の間を行ったり来たりしていたのだ。



 私は今でも後悔しているのだが、あの時父母が何と言おうと、会いに行くべきだったと思う。会いに行っていれば、その後の混乱は全く起こらなかったからだ。本当に、あの時のことは今でも悔やまれる。私の人生の明暗を分けた瞬間だった。

 数日後、彼女から手紙が届き、私としても、混乱した手紙を書いた。

 すると彼女から電話がかかってきて、

「私失恋したの、こんな状態で悪いけど。」

というようなことを言う。

 私が、

「気持ちが不安定なら、しばらく待つよ。」

と言うと、彼女から、

「恋人になるかどうか、イエスかノーで求めるのかと思った。」

と、いわれた。私は、正直言って、びっくりした。彼女が想像していたのは、そういうことだったのかと。

 私は、余りにびっくりしたので、

「いや、そういうことではないよ。」

と、答えた。

 無論、私は、彼女と付き合いたいと思ってはいた。だが、そんなことを、電話で、気軽に「イエスなの、ノーなの?」と、尋ねるほど、私は当時恋愛の訓練を積んでいなかった。

 彼女は恋人になりたいんじゃなかったのか、と思ったらしく、それきり電話もよこさなくなった。

 それから2月経ったある日、私は取りかえしの付かないことをしたのではないか、という思いにとらわれた。


 今まで誰にも明かしたことのないことなのだが、私がその時、どういう取りかえしの付かないことをしたと思ったのか。

 それは、私が恋人にならなかったために、彼女が失恋したと思い、持て余した体を、誰か他の男性に慰めてもらったのではないか、と、思いついたことであった。




 そして、その瞬間に、あの時、父母が間を取り持つ計画を立てていたという妄想を、妄想だと思っていたのは、間違いだったのではないかと、信じ込んでしまったのだ。

 父母は私が彼女を好きではないようです、と相手のご両親に伝えてしまったのではないか。そして、彼女は、失恋を味わって、他の男性に・・・



 このときの嫉妬の情は強く、私の頭は上下に分裂したように感じられるほどであり、この、もの凄い感情のために、私の頭は、壊れてしまったと言っていい。

 私の父が、一番知りたかったのは、もしかするとこの部分だったのかも知れないと、今になって思う。

 こうして、私は統合失調症ヘの道を歩むことになったのだった。


 だが、この病気が本当に発病するのは、4年後のことだった。一度壊れてしまった頭だったが、なんとか休息を取ることで、少しは回復したのだった。

 世の中の男女の関係は、周りの人が色々と支えてあげているのだ、という妄想は消えなかった。よく、赤い糸で結ばれている、というのは、実は、周りの人たちが、巡り会えるように手を焼いているのだと、感じるようになってしまっていた。

 そんな状態で、2回生の時、2度目の肉欲を伴う恋愛をし、3回生の時、失恋を味わった。私の頭は、もう正常ではなかった。学校へ行っても、周りの人が、私のことを何か話しているように感じられ、それを被害妄想のような、妄想だと、片付けることが出来なくなってしまっていた。

 だが、犯罪を犯したわけでもなかったので、父母も、兄弟も、私が病気だとは、考えなかった。

 そして、4回生の時、暑い夏を迎えた。

 勉強したいのに、頭は以前の冴えを失ってしまっており、焦るばかりだった。

 8月に入った頃のある晩、私は、夜、布団の上に座り、全世界の人たちのために、これをしなければいけない、という使命感に燃えて、何度も何度も、オーディオセットのDATのピークレベルメーターの数値を読み上げていた。

「マイナス3デジベル、マイナス0.5デジベル、・・・」

などというように。

 疲れ切って眠りについた。

 翌日、当時やっていた、新聞配達のアルバイトの間中も、色々なものとメッセージをやりとりした。

 犬がワンと吠えれば、

「ワンだから、1だな。1に関することで、何か重要なことが起きているのだな。」

という具合である。

 そして、家に帰り、

「私は、太郎だ。ウルトラマンタロウだ。ウルトラマンタロウは、あのウルトラマンシリーズの中で、一番兄弟に助けてもらうんだよな。」

などと、考えた。

 そこへ、母から電話があった。事務的な用事だったのだが、話しているうちに、ウルトラの母としゃべっているような気がしてきた。

 初め私は、母に、そっちへ怪獣が向かっているよ、と伝えた。だが、考えているうちに、怪獣が向かっているのは、自分の方だと感じられてきた。それで、

「すぐこっちへ来て。」

と言った。

「すぐなんて無理よ。」

と、母は言ったが、私が、正常でないことを感じ取り、

「4時間後くらいに行ってあげる。」

ということになった。

 それからの4時間、私は、明らかに発狂した人の行動を取っていた。

 水性ボールペンのキャップが、人類の未来をかけた宇宙船のように思い、大事にあちらこちらと動かした。

 母が弟とともにやってきた時は、自分が、銀河鉄道999の機関車になったように感じて、家の中を

「シュッ、シュッ」と動き回り、最後には脱線して倒れ込んだ。

 母が、

「来たからカギを開けてよ。」

と言ったが、

「お母さんなら、カギを持っているでしょう。カギを持っていないということは、怪獣だな。」

と、開けてあげなかった。

 弟は、なんとか私を落ち着かせて、カギを自分で開けさせてくれようと、説得してくれたらしいのだが、怪獣だと思いこんだ私は、カギを開けなかった。

 後で気付いたことだが、私の家は、中からカギをかけると、外からは開けられないのだった。

 40分間ねばった後、弟は、裏へまわって、カギの開いていた窓から入り込み、私に大丈夫?と聞いた後、母を中へ導いた。あのとき、弟がいなければ、警察を呼ばなくてはならないところだった。それでも、弟と母は、あの40分で蚊の餌食になったと、ぼやいていた。

 中では、私は、もう、明らかに異常になってしまっていた。

 そして、翌日横浜の実家へ連れ戻されたのだった。私の大学在学中に実家は広島から横浜に移っていたのだった。


 そして、実家に帰ってからも私は、異常な行動をとり続け、精神科の先生から精神分裂病と診断されたのだった。

 これが、私の、発病までの、様子である。

 あの、価値の転換が起こってしまったあたりから、すでに発病していたのだが、4年間もの時間を異常なまま過ごしてしまったというのは、なんとも、残念なことであった。





注記:
2011年12月3日17時49分復活させた。

2013年1月12日21時22分誤植を訂正した。

2013年6月9日19時35分、大幅に、書き加えた。