相対性理論を学びたい人のために

まだ一度も相対性理論を勉強したことのない人は、何か一冊相対性理論の本を読みかじってみて、なぜこんなことが?という、疑問を持ってからこのブログに来てください。ブログの先頭に戻るには表題のロゴをクリックしてください

やっぱり安物は駄目だな

 現在2007年11月19日2時45分です。

 私は、いつもチラシ配りの仕事をしている。従って、歩くのが商売だ。そうなると、靴が商売道具になる。

 毎日毎日歩いているので、10年以上前から時々運動する時履いていたスニーカーを今年に入ってから酷使することになり、一昨日履きつぶしてしまった。底に穴が開いたとか、紐が切れたというわけではないが、踵が壊れてしまい、靴下の踵の部分に穴が開くようになってしまったのだ。

 こんな靴を履いていると、どんどん靴下がお釈迦になってしまい、却ってもったいないことになる。すぐに、靴を買い換えなくてはならない。

 しかし、先日タクシーに乗ってしまったので、余りお金は使いたくない。カードの支払いのために、少しでも、残しておきたいのだ。


 そんなわけで、予算は4千円で、今日というか昨日、仕事の前に横浜のダイエーへ買いに行った。

 私を知っている人なら誰でも分かるように、私は、身なりのオシャレをしようと気を遣うことのない人間だ。服も、母や妹や弟に選んでもらっている。靴だって、どんなの買ったらいいか分からない。

 それで、靴売り場へ行き、店員に、

「今履いているこのスニーカーみたいなのを探しているのですけど、どれか、お勧めのはありますか?」

と、尋ねた。

 店員に、

「お勧めのはあるか?」

と、私が選択権を任せたのは、2004年3月16日にMP3プレーヤーを買った時以来、今回で2度目である。

 私は、自分の好みがはっきりしているので、大抵のものは、自分なりに調べ抜いて、一番気に入ったものを買う。そうしないと、後で後悔するのが分かっている。

「自分で選んだのだから、責任は私にあるんだ。」

と思えば、例え良くないものだったとしても、不満はわかない。

 だが、MP3プレーヤーの時は、運動しないと体のために良くないと言われて、毎日15分間走ることに決め、ただ走るのはいやだから、音楽を聴きながら走りたいというので、どれでも良いから、安いMP3プレーヤーを1個買って、走るための動機付けをしよう、ということだったのだ。

 池袋のビックカメラへ行き、そばにいた店員に、

「どれが良いか分からないんですけど、お勧めのはありますか?」

と、聞いて、18,690円の安物を買ってきたのだった。写真を見たい人は、2006年1月23日の、私の投稿記事を読めばよい。

 安物だったために、メモリの容量が128MBで、本当にわずかの曲しか入らなくて、いつも、もうちょっとメモリの容量の大きいのにすれば良かったかな、なんて思いながら、それでも、新しいのを買う気にはならなくて、今でも使っている。

 メカに関しては、こだわるのだが、服装に関してはこだわらない。

 そんなわけで、私にしては珍しく、今回の靴も、何の下調べもせずに買い物をすることになった。

 さて、店員が、こんなのどうですか? と言って、2,990円のから始まって、3,500円や、5,000円くらいのいくつかの靴を並べた。

 予算としては、4,000円あったので、3,500円のでも良かったのだが、なるべく倹約しようということで、1番安い、2,990円のスニーカーをとりあえず履いてみた。

 そうしたら、結構ピッタリだったのである。

「これで、いいや。安くて済んで良かった。」

と思って、それを買うことにした。その日はセールをしていたので、2,691円にまけてもらって、

「良かった、良かった。」

というので、仕事に向かった。

 そして、20時半頃までチラシ配りをして帰ってきた。履き心地は良かった。

 ところが、家に帰って、靴を脱いでみてびっくりした。グレーの靴下が、真っ黒になっているのだ。色が落ちたのかな、と一瞬思ったが、そうではなかった。湿っていたのである。要するに蒸れたのだ。

 今までのスニーカーでは、こんなことはなかった。使われている生地が悪くて、通気性が悪いのだろう。だから蒸れるのだ。

「やっぱり、安物だったからなあ。5千円とか、6千円とかする靴があるというのは、こういうところが違うのだな。」

 私は、がっかりした。

「やっぱり安物は駄目だ。」

 改めて、私はそう感じた。

「高いものには、それなりに良い部分があるのだ。だから高くなるのだ。安物買いの銭失いだったな。」

と思いながら、昔のことを思い出していた。

 私の父母は、私と妹に、常に、本物を渡し、お金をかけて育ててくれた。

 いつも私が、物理の道に進むことになったのは、小学校1年生の時に、父に、相対性理論の本を読んでもらったからだ。と言っているように、父は、私に子供向けの図鑑なども買ってはくれたが、それとは別に、大人向けの本物の本も買って、渡してくれていたのだ。

 それに、私と妹はいつもキッカーズ(Kickers、フランスのメーカーである)の靴だった。紐を結ばなければいけないので大変なのだが、足の裏の土踏まずのためにこれがよい、ということでそういうことになっていた。

 また、鉄道模型も、プラレールではなく、本物のHOゲージの模型を買ってくれていた。これは多分に、父が鉄道を好きで、自分の趣味で、HOゲージを買いたかった、というのもあるが、そうやって買ったものを、幼稚園の私に触らせてくれていたのだ。

 私が小学校に上がる前だから、今から30年も前に、2万6千円もした、C62の2号機(これは、鉄道ファンならば誰でも知っているように、ツバメのマークがついている)の蒸気機関車の模型を、今は痴呆症で病院に入っている祖母に買ってもらった時も、それのために、父は、電源トランスを自作してくれて、ちゃんと電気で走るようにしてくれた。

 もちろん、20本で一周する線路も買ってくれたし、ポイント切り替えの線路も買ってくれた。今では、ああいうもので遊ぶ人があまりいないので、ほとんど売られていなくて、このブログの読者は、HOゲージの線路や、客車や貨車が、どれほど高価なものか、分からないだろうが、幼稚園生が、触れるようなものではないのである。

 余談になるが、父は、C62よりも、電気機関車のEF57が好きで、わざわざ新宿の伊勢丹からその珍しい機関車の模型を取り寄せて、それで貨車を引っ張らせていた。その機関車は、今でも、実家の大切なものが入っている棚に、一本の線路の上に載せられて、飾られている。

 さらに余談になるが、20年ほど前、EF57の描かれた切手が発行された時は、2シートも買って三次(みよし)にいた父のところへ持って行ってあげたのに、あのケチな父が、

「こんなにお金を遣って、もったいない。」

の一言もなく、嬉しそうに、しまっていた。

 この切手である↓。

   EF57の切手

 よっぽど、EF57が好きだったのだろう。

 話が脱線したが、その、大事にしていた、EF57の模型も、幼稚園生の私に触らせてくれていたのだ。今思えば、信じられない程のことである。

 そうやって、父は、私と妹に常に本物を与えてくれた。

 SONYの井深大の「幼稚園では遅すぎる。」を読んで、水泳とヴァイオリンを習わせようと思い立ち、私が3歳の時から、渋谷から井の頭線で30分もかかる浜田山まで、「フジヤマのトビウオ」と言われた、古橋廣之進(ふるはし ひろのしん)の開いた水泳教室に通わせてくれていた。

 ヴァイオリンも、

「天才になるか、全然駄目なまま終わるかのどちらか。」

と言われている鈴木メソードの教室に通わせてくれていた。

 

幼稚園では遅すぎる 新装版 (サンマーク文庫 G- 108)

 

 そうやって、英才教育を受けた私であるから、持っているものは常に本物だったし、実力も本物だった。

「いつも、手に出来る最高のものを持たせてもらえる。」

 それが、私の誇りであった。

 父にとっても、私がそうやってすくすくと伸びていってくれるのを見るのが、嬉しかったのだろう。

 旭硝子という一流の会社に勤めていたからお給料も良く、母がパートで働かなくとも、そんな育て方が出来たのだろうと、今になって思う。

 私が、この病気になって、京都から戻ってきた時、初め私は、ほとんど何も出来ないほど脳の働きを抑える薬を飲まされていた。

 妄想が起こるのは、脳の中のドーパミンという物質が過剰に分泌されるからであり、これの分泌を抑える薬を飲ませて、何とか妄想が生まれるのを抑えようとしていたのだった。

 従って、妄想が起こらなくなるかわりに、何もする意欲がわかなくなり、眠くなる、という副作用が伴う。

 父は、私がノーベル賞を取るのは、諦めたようだった。だが、それを諦めたかわりに、

「一生障害者として、親のスネをかじって生きていくような人生を送らせることは、許さない。」

という変な哲学を持ってしまった。そして私に、

「自立するにはどうすればいいか、考えろ。」

と言い、

「毎週レポートを書いて提出しろ。」

と、命令した。

 私としては、例え薬を飲まされていても、ピタゴラスの定理くらいなら証明を自分で出来た。だから、数学のレポートを書きたかった。

 だが父は、

「数学のレポートじゃ、俺が分からないから、社会のことについて書け。」

と言った。

 それで、私は仕方なく毎週毎週、父を喜ばせるようなレポートを書かねばならなかった。父を喜ばせるようなレポートというのは、例えば、図書館で「トップガン」の映画をヴィデオで観てきて、

「昔見た時は、バイパーが、トップガンの生徒を前にして、『諸君はトップ1%の優秀パイロットだ。そのエリート中のエリートをさらに鍛える』という場面のところで、『私も、エリートだから、マーヴェリックみたいに1%なんだ。』と、思っていましたが、今回、京大を中退してきて、自分がエリートでなくなったので、この同じ場面を見て、『ああ、私は今ではエリートではないんだよな。』と、思いました。」

なんていうことを書くのだ。

 もちろん、私は本当にそう思っていたわけではない。

 小さい時から、

「お前は特別だ。」

と言って育てられた私は、統合失調症になって京都大学を中退しても、

「自分は、世界最高であり歴史上最高の物理学者であり数学者だ。」

と、信じていた。だから、「トップガン」を見た時の感想も、昔と全然変わっていなかったのだ。

 だが、人の心の分からない父は、私のレポートを鵜呑みにして、

「シメシメ、あいつもやっと己を知ったか。」

なんて、思っていた。

 父は、優れた頭を持っていたが、人の心を分かるということに関しては、遺伝的に欠陥があった。

 実は、父の母親。つまり、あのC62の蒸気機関車の模型を買ってくれた私の父方の祖母が、人の心の分からない人で、親戚中に嫌われていた。

 父は、その祖母からの遺伝で、先天的に人の心を知る、ということが苦手だった。

 もちろん、慶應義塾大学工学部へ行ったくらいだから、もの凄く勉強家であり、小説をいっぱい読んで、

「小説というのは、人の心が分かるように、小説家が実験して見せているんだ。」

なんて言っていた。

 本当に、たくさんの小説を読んでいて、レフ・トルストイの「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」「クロイツェル・ソナタ」、ロマン・ローランの「ジャン・クリストフ」「魅せられたる魂」、スタンダールの「赤と黒」、トーマス・マンの「魔の山」、ドストエフスキーの「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」などなど、およそ、岩波文庫で手に入る小説という小説は、ほとんど読んでいた。

 日本の作家のものも、もちろん読んでいた。夏目漱石森鴎外芥川龍之介太宰治川端康成武者小路実篤大江健三郎・・・。私が名前も知らないような作家の小説もいっぱい読んでいた。

 だが、脳に欠陥がある、というのはどうしようもないようで、そんなに苦労して、人の心を知ろうとしているのに、全然、人の心が本当には分からないのだった。

 もちろん、小説を読んでいるから、表面的なことは分かる。私が大学入学早々、私を振った女性に会いに行くのを止めたのも、

「お前は振られているんだよ。」

ということが分かったからだ。

 だが、

「人間の心というものは、小説を読んだだけで分かるものではない。」

ということが、分かっていなかったのだ。

 人間の心というものは、本当に複雑だ。

 例えば、私は、以前の会社を辞める前に、そこでお世話になった社長の娘さんに、私の最も敬愛するヴァイオリニスト、前橋汀子の、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ&パルティータ全曲のCDをプレゼントしたことがあった。

 

無伴奏ソナタ&パルティータ全集

 

 

 向こうの娘さんは、私と親しかったが、このプレゼントには、

「お給料少ないの良く知ってます。こんな無理をされないで下さい。」

と、当惑したとのことだった。

 この時の父の反応が、

「お前は、人の心が分からないな。あんなプレゼントもらったら、娘さんは、困るというのが分からないのか。」

というものだったのだ。

 実はあのCDには、私の策略が隠されていたのだ。

 策略といっても悪いものではない。

 私は、親しかったあの娘さんの一番好きな男性が、私であるかどうかを試したのだ。

 小説を読んで、人の心を知ろうとする父などは、普段の挙動から、相手が自分を好んでいるかどうかを探ろうとするが、人の本当の心を知ろうと思う私は、そんな間接的な手段を取らない。

 ストレート勝負で白黒つけるのである。

 8年半も私を雇ってくれた優しい社長だったから、私としても恩返しをしたかった。だから、もし、その娘さんの1番好きな男性が私であるなら、結婚しても良いと思っていたのだ。

 以前にも書いたが、男性にとって、

1番好きな女性

というのは確かに、かなり重要な意味を持つが、年齢とともに、変わっていくものである。だが、女性にとって、

1番好きな男性

というのは、余り変わらないのだ。

 だから、私としては、障害者であり会社のお荷物になっているにもかかわらず、私に優しくしてくれる娘さんの、本当に1番好きな男性が私であるなら、結婚しても良いと思ったのだ。

 私自身としては、その娘さんを、嫌いではなかったが、好きではなかった。ちょっと男性的で、カッコ良い娘さんだったが、私にとって重要な意味を持つ、数学が分かるかどうか、という点で不合格だったので、結婚したいなどとは思っていなかったのだ。

 だが、相手にとって、本当に1番好きな男性が私であるならば、結婚して幸せにしてあげるくらいのことは、私には、可能だった。私は、その程度には人間が出来ている自信があった。

 それで、彼女の1番好きな男性が私であるかどうかを、最後に確かめたのだ。

 もし、この高価なCD(アルバイトの私にとって、4,893円 は、高額である)をプレゼントされて、まず、第1印象として、

「嬉しい」

という気持ちが出れば、私を一番愛していると、見て良いだろうと思った。

 もし、それ以外の感情が先行したら、私は1番好かれているのではないのだ。そして実際、彼女は、

「こんなことされて、困ります。」

という反応が先行したようだったので、私は、

「彼女と結婚する必要なし。」

と判断した。

 35年間生きてきて、私なりに、この判断は正しいと確信している。

 私は、奥手で不器用な人間だが、母親譲りの人の心が本能的に分かるという能力を持っているので、こうやって、余り賢い方法ではないが、人生での重要な決断を、間違いなく行うことが出来ている。

「人間の心というものは、小説を読んだだけで分かるものではない。」

というのは、かの夏目漱石の信条としていたことだったそうである。その話を聞いた時、私は、

夏目漱石の小説の中で、『虞美人草』だけは、最後に、話を完全に終わらせてしまっているな。」

と感じた。

 そうしたら、夏目漱石自身、「虞美人草」では読者のために最後まで全部書ききってしまったが、後になって、あの小説は良くなかったと、後悔していたそうである。

 だからやっぱり、小説を読むだけでは、人の本当の心は、分からないのである。

 父が人の心が分からない、という話から、随分脇道にそれてしまったが、私は、1年近く、そうやって、父を満足させるために、心には思ってもいないことを、レポートに書き続けた。全くあれは、悪夢だった。

 私が、新横浜の「デイケア」に入って、作業所で、少しずつだが、お金を稼ぎ出したのを見て、やっと父は、レポートを書かなくても良いと言ってくれた。

 私としては、悪夢の1つが去って、ほっとしたのだった。

 弟には悪いが、私と妹は、特別な育てられ方をした。だが、妹の方は、それが重荷だったようだ。中学校でも、

「あの娘さんのように勉強が出来たら、良いのにねえ。」

と、周りのお母様方が言うような程度には優秀だったが、私という兄を持ってしまったために、自分が特別な人間にはなれない、ということを早くから、自覚していたのだ。

 まるで、アンドレ・ヴェイユと、シモーヌ・ヴェイユのような関係だが、本当のことだった。

パスカルの幼少時代とも比べられた私の兄の類い稀なる才能は、私に自分の平凡さを意識させました。」

と、思想家として確かな地位を確保した後でも、シモーヌは述懐していたそうだが、それと同じように、私と妹でも、私の方だけが、特別だったのだ。

 本当のことを言うと、妹と私では、中学校の成績は、平均すると、妹の方が、上だった。妹の名誉のために言っておくと、妹は、十分努力もしたし、デザインや写真を撮る能力などでは、非凡なものを持っていたのだ。

 妹が、私に教わりながら、彼女らしく中古のNikon newFM2を買って、絞りとはどういう働きをするか、シャッタースピードが遅いとどうなるか、ということを私から教わって撮った写真は、フラワーアレンジメントの雑誌で、特賞を取った。

 私は妹より遙かに深く、カメラの構造や、光学のことが分かっていたし、カメラに関しては、中古のものを買うなんてとんでもない、ということが分かっていたが、私の撮る写真は、人前に出せたものではなかった。

 美術的なセンスというものが、私にはまるでなかったのだ。

 いや、全くなかったのではあるまい。少しはあったからこそ、妹にはかなわない、ということが分かったのだ。モーツァルトサリエリのようなものだ。

 妹は、まともな人と結婚し、幸せな生活を送っている。彼女の方が、人生では成功しているのだ。

 だが、私は、自分が不幸せだとは思わない。父と母から、特別な子供として育ててもらったことを、感謝している。

 私は、いずれ物理学者になり、その人ありき、といわれるような何事をかをなすだろう。それだけの自信はある。

 あの、マーヴェリックのように、私もまた、エリートの中で、注目されるような人間になっていくのだ。そして、そんな私を培ったのは、本物を、常に渡し続けた、父と母の愛情だったのである。

 私の幼稚園に入る前の写真に、レコードプレーヤーでヴィヴァルディの「四季」(今考えるとイ・ムジチ合奏団のロベルト・ミケルッチ独奏ヴァイオリンによる演奏だったのだろう)を、かけようとしているものがある。幼稚園にも入らない前の私に、レコードプレーヤーを触らせてくれた父母。あの2人なくして現在の私は語れない。

 やっぱり、お金の出し惜しみをしてはいけないのだ。

 高いものには高いなりの理由があるのだ。

 このことを、湿った靴下を乾かせながら、私は肝に銘じていた。

 現在2007年11月19日9時15分です。おしまい。

 

 

 この投稿をしてから、7年近くが経過した。

 そして、私は、2度の入院を経験し、さらにその後家族や親戚の人々に非常に助けられた。

 そして、2014年11月3日に、父母の心に気付いたのである。

 以下に列記するこの投稿の記事は、その後に書き記すように、訂正されねばならない。2014年11月6日20時28分これを書いている。

 

 

 

 いつも私が、物理の道に進むことになったのは、小学校1年生の時に、父に、相対性理論の本を読んでもらったからだ。と言っているように

 

これは、小学校2年生の時だったようだ、ということが後になって分かった。

 

  私が小学校に上がる前だから、今から30年も前に、2万6千円もした、C62の2号機(これは、鉄道ファンならば誰でも知っているように、ツバメのマーク がついている)の蒸気機関車の模型を、今は痴呆症で病院に入っている祖母に買ってもらった時も、それのために、父は、電源トランスを自作してくれて、ちゃんと電気で走るようにしてくれた。

 

父が電源トランスを自作してくれたのは、C62の模型を買ってもらうより以前のことだった。文章を書いているとき、面倒なので、ついいい加減なことを書いてしまった。また、この祖母は、他界した。

 

 

 だが、人の心の分からない父は、私のレポートを鵜呑みにして、

 

私は、今まで父は人の心の分からない人だと思っていた。だが、これは、誤りだった。訂正する。申し訳ない。

そのあとの文章でも、このことを訂正する。申し訳なかった。

 

 

 さらに余談になるが、20年ほど前、EF57の描かれた切手が発行された時は、2シートも買って三次(みよし)にいた父のところへ持って行ってあげたのに、あのケチな父が、

「こんなにお金を遣って、もったいない。」

の一言もなく、嬉しそうに、しまっていた。

 

これは、恐らく本当のことだったのだろうが、切手を持って行ったのは私ではなく母だったので、私は母から聞いたことを書いたのであった。いい加減なことを書いて、申し訳ない。

 

 

 この時の父の反応が、

「お前は、人の心が分からないな。あんなプレゼントもらったら、娘さんは、困るというのが分からないのか。」

というものだったのだ。

 

これは、私が母の言ったことから想像したものであって、本当に確かめたわけではなかった。いい加減なことを書いて申し訳ない。

 

 

 35年間生きてきて、私なりに、この判断は正しいと確信している。

 

42年間生きてきた今となっては、これが正しかったという確信はない。今でもその娘さんは結婚していないし、父が人の心の分かる人だったということが明らかになった今では、これは、取り消さなければならない。

 

 

「人間の心というものは、小説を読んだだけで分かるものではない。」

というのは、かの夏目漱石の信条としていたことだったそうである。

 

これは、私が、夏目漱石についての講演を聞いてきた母から聞いた話なので、出典を明らかに出来ない。正しいかどうかは、保留する。

 

 

 そうしたら、夏目漱石自身、「虞美人草」では読者のために最後まで全部書ききってしまったが、後になって、あの小説は良くなかったと、後悔していたそうである。

 

これも、私が、夏目漱石についての講演を聞いてきた母から聞いた話なので、出典を明らかに出来ない。正しいかどうかは、保留する。

 

 

パスカルの幼少時代とも比べられた私の兄の類い稀なる才能は、私に自分の平凡さを意識させました。」

と、思想家として確かな地位を確保した後でも、シモーヌは述懐していたそうだ

 

これは、『アンドレ・ヴェイユ自伝』という本の古い版の帯に書いてあったことなので、出典を明らかに出来ない。正しいかどうかは、保留する。

 

私の撮る写真は、人前に出せたものではなかった。

 

これは、本当のことだった。私の従妹の結婚式で、祖父の形見のNikon F2 フォトミックSで撮った写真は、ほとんどすべて、ピンぼけだった。私が落ち着いて、心を込めて撮った1枚だけがピントがぴたりと合ってくれていて、「ああ、彼女のおじいちゃんのカメラだから、この1枚だけはあの子の心まで伝わってくるような写真に仕上がったのだな。」と、ほかの写真がダメだったのを残念に思いながらも、納得したのだった。

 

 

 私は、いずれ物理学者になり、その人ありき、といわれるような何事をかをなすだろう。それだけの自信はある。

 

この自信は、今回2度目に入院したとき、崩れてしまった。私は、その時まで、フィールズ賞アーベル賞ノーベル物理学賞ノーベル化学賞ノーベル生理学・医学賞ノーベル文学賞ノーベル平和賞を取れる、と思っていた。だが、私にとってオリジナルな成果は、アーベルの計算の謎を解いた、一流の数学者なら5分で計算できるものと、微分形式の外微分の定義の改良をした、やはり一流の数学者なら1分で分かることしかない。私は物理学者にはなれなかったのである。

 

  

 以上が訂正することである。

 

 今日はここまで。現在2014年11月6日22時12分である。おしまい。