相対性理論を学びたい人のために

まだ一度も相対性理論を勉強したことのない人は、何か一冊相対性理論の本を読みかじってみて、なぜこんなことが?という、疑問を持ってからこのブログに来てください。ブログの先頭に戻るには表題のロゴをクリックしてください

難しいということの相対性(改訂後)

 現在2005年6月7日0時11分です。(この投稿は、ほぼ2799文字)

 土曜日曜と、ブログも書かず、何もせず、寝てばかりだったので、今日は多少遅くなっても大丈夫です。

 日曜日布団の中で考えていたのは、難しいということの相対性です。ある人にとって難しいことも、他の人にとっては易しくて何でもないということは良くある。相対性理論にしても、数学の苦手な人には、ものすごく難しいように思えるが、数学の得意な人からすれば、難しくなかったりする。新しい発想について行ける柔軟な頭があるかどうかも、関係してくる。

 先日の放送大学のC言語のプログラミング実習で、先生があまりに親切に答えを示してくれるので、私は段々自分の頭で考えるのがバカらしくなり、先生の解答を写しているだけになってしまった。これではC言語のプログラミングの力がつくわけがない。結局私は、C言語でプログラムを組む力が全然向上せずに終わってしまった。

 小さい子供は、つまらないようなことも、自分の頭で一生懸命考えるが、大人になるにつれて、多くの人は、誰か他の人が模範解答を与えてくれるだろう、という気持ちを持ってしまって、余り自分で考えなくなってきてしまうのではないだろうか。少なくとも、仕事で嫌々でも考えなければならないことを除けば、もう頭を使いたくない、という人も多いのではないだろうか。

 こうなってしまうと、もう学問に取り組むということはアホらしくなってしまう。そして一度そういう習慣が付くと、もう昔の紅顔の美少年、美少女に戻るのは難しい。

 数学が恋人で、物理が正妻と言っているような私ですら、33歳ともなると、こんなことを感じるくらいだから、社会で疲れ切っている大人達に、今さら、数学を学び直してみてはいかがか、というのは、無理な注文なのだと最近感じてきた。

 しかし数学のない科学は説得力がない。少なくとも物理学を語るとき、その本質を言葉で言うことは大切だが、その言葉を聞いて本質を理解できるのは、やはりファインマンのように、数学が分かっている人なのだ。数学的なことが分かっている人間でなければ、言葉だけで、頭にイメージを描くことは出来ない。ファインマンは、敢えてそれを数式はどうでもいい、言葉で、と言ったが、要するに、聞く側の頭の中に、言葉で言われたものをイメージできるだけの考えるための材料がなければならないのだ。それが多くの人にとっては、数式であり、ファインマンにとっては、物理的イメージだったという違いに過ぎない。

 数学は、物理を志す多くの人にとって、共通の言語だ。それを無しにして、物理は語れない。しかし、数学は自分の頭を必死に使って、考えることによってしか身に付かない。20歳で決闘に倒れたにもかかわらず、不滅の業績を残した、エヴァリスト・ガロアのような天才が、どの程度努力したかは分からないが、あの天才カール・フリードリッヒ・ガウスの手帳にも、『こんな計算もう嫌だ。』と言う言葉があったそうだから、恐らくガロアにしても、紙には書かなかったかも知れないが、ものすごく一所懸命頭を使って計算していったという努力の積み重ねがあったのだろう。

 どれだけ努力したか、そしてどれだけ才能があったか、そのかけ算の結果として、それぞれの人が自分の能力を持っている。才能に関してはどうしようもないが、少なくとも努力に関しては、万人に、チャンスが与えられている。しかし、悲しいかな、才能のない人は、努力も惜しむようになってしまいがちなのだ。『だれでも持っている人は、さらに与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。』というイエスの言葉は、ここでも真実であることを私は感じてしまう。これはルカスによる福音の19章26節の言葉で、マタイオスによる福音にも似たような記述があるのだが、2000年以上前から、人間は皆同じなのだ。

 では私は何をしたいのか。それは、ヴァイオリンにおいての鈴木メソードのように誰でもが文学者や作家にはならなくとも、言葉を話せるようになるように、音楽を楽しむことが誰にでもできるようになるというのを、物理学においてやろうというのだ。目標を先に書くと、小学生が、落ちこぼれを一人も出さずに、1975年のホーキングの結果、ブラックホールはブラックではないという一般相対性理論と、量子力学、それに熱力学的な考察の上に得られた結果を理解できるような、ギャップの全くない教科書を書きたいというのだ。数学は、必要に応じて学んでいくという形で、無理なく導入していきたい。

 厳密さは初めは要求しない。それが必要になった段階で、数学を厳密に扱う方法を書けばいい。こういう本を読むことで、難しいと思っていたことが分かった、という喜びを誰でもが味わえるようにしたい。そしてそれを味わった人の中から、さらに自分で努力して、新しい時代の科学者が誕生していったらいい。そう思っているのだ。

 ではなぜホーキング効果なのか。それは、私が実際一般相対性理論を学んでみて、それが学ぶ甲斐のある、美しいものであることを知っており、また量子力学に関しては、今勉強中であり、その小目標の一つが、ホーキング効果の理解であるからなのだ。

 私の言っていることは不可能なことだろうか。小学校の先生に特殊相対性理論ですら、教える能力のないことを私は知っている。しかし日本の、いや世界の将来を考えるとき、一般の人であっても、ホーキング効果ぐらい生まれてくる子供に説明できる、というくらいに、物理学が身近なものになっているべきなのではないかと私は考えるのだ。

 物理学と数学を学ぶのは、そんなにも大変だろうか。易しすぎる本は、最初に書いた放送大学の講義のように、何も身につけてくれないかも知れない。しかし難しい本しかない、というのは問題であると思う。一冊くらい、これを読めば、必ず分かるように書いてある、という本があったって良いじゃないか。

 これが私の物理や数学に対する昔からの考え方である。今言ったことは、私一人の力では、どうすることも出来ないかも知れない。また一方、私以外にも、同じような努力をしている人もいる。

 私は40歳くらいまでは、物理学の新しい進歩のために、働きたいと思っている。もし40歳になっても、まだ、物理学に新しい貢献が出来なかったときには、今言ったような本を書くことに、残りの人生を使いたいと思っている。

 私としては、私よりも物理や数学の分かっている人が、私の精神を汲んでくれて、力を貸してくれたらと思ってもいる。

 現在6月7日1時47分。もう寝ることにしよう。今日は私の夢について語っただけになった。

 現在2022年1月10日6時56分である。改訂を行った。