現在2018年5月14日12時31分である。
「あらっ、もう忘れかけてる話題ね」
この話題は、重くなるの分かってたから、なかなか書き始める気に、ならなかったんだ。
「この前は、どんな話だったんだっけ?」
数学科の大学1年生のための勉強法として、裏技を4つほど紹介したんだ。
「じゃあ、今日は、2年生?」
実は、申し訳ないんだけど、私、大学の数学科の2年生が、どんなこと勉強しているか、知らないんだ。
「えっ、太郎さん、物理学科だったから?」
そうじゃなくて、学校とはほとんど関係ないこと、勉強してたんだ。
「太郎さんは、よく、勉強してない、とか、仕事してない、とか、いいながら、とんでもないことやってるから、良く聞いてみなきゃね」
「どんなこと、やってたの?」
ひとつは、川口周君のゼミで、アールフォルスの『複素解析』という本を読んでいた。
もう一つは、私の発案で、松本幸夫の『多様体の基礎』という本を読んでいた。
それから、グライダー部の親友のゼミで、ファインマン物理学のⅤ巻『量子力学』を読んでいた。
さらに、X指定の親友とのゼミで、石田信の『代数的整数論』という本を読んでいた。

- 作者:L.V.アールフォルス
- メディア: 単行本

- 作者:松本 幸夫
- 発売日: 1988/09/25
- メディア: 単行本

- 作者:ファインマン
- 発売日: 1986/04/07
- メディア: 単行本

- 作者:石田 信
- 発売日: 2003/09/15
- メディア: 単行本
「それが、学校と関係ないの?」
学校の授業より、半年から1年進んでいた。
「じゃあ、普通の2年生は、何やってるの?」
だから、知らないんだって。
「想像は、付くでしょ」
多分、色々な、難しいことの、具体的な例を、勉強しているんだろうと思う。
「例えば?」
多様体というものは、一番簡単な例で言うと、曲線なんだ。
もうちょっと次元が上がると、曲面になる。
そういう風に、曲線や曲面のことを、勉強してるんだと思う。
「だとすると、太郎さんは、どうなってるの?」
いきなり、次元の多様体を勉強しちゃった。
「それは、いいことなの?」
私らしくないよね。
私は、体なんてものを考えたから、5次方程式が解けないなんてことになったんだ、と思って、抽象的な体という概念を受け入れずに、数学を作ろうとした。
それなのに今回は、必要かどうかも分からないのに、抽象的な次元多様体を、勉強しちゃった。
実は、私には、多様体が必要になる理由があったんだ。
「あっ、分かった。一般相対論ね」
そうなんだ。
だから、ものすごく急いでたんだ。
私が、思うに、2年生は、初歩的な微分幾何、整数論、ガロア理論の初歩、常微分方程式の基礎、くらいを勉強しているんだと思う。
具体的に本を挙げると、

- 作者:小林 昭七
- 発売日: 1995/09/01
- メディア: 単行本

- 作者:高木 貞治
- 発売日: 1971/10/15
- メディア: 単行本
石井俊全『ガロア理論の頂を踏む』(ベレ出版)

- 作者:石井 俊全
- 発売日: 2013/08/22
- メディア: 単行本

- 作者:高橋 陽一郎
- 発売日: 1988/12/01
- メディア: 単行本
あたりなのかなあ。
「太郎さんは、これらを読んでないのね」
うん。
なぜ、読んでもいないのに、これらを並べたか、というと、これらを読んでなかったために、私が、その後、ものすごく苦労したからなんだ。
「つまり、『読んどけよ』というわけね」
そう。
私が、これらを読めなかった理由のひとつは、最初にあげたゼミをやってたからだが、もうひとつ理由がある。
「どんなこと?」
1年生のとき、川口周君のゼミで、『代数概論』という本を読んでいて、具体例が少なくて抽象的な話が多く、
『ここに書いてあること本当なのかな?』
と、疑問に思った。そして、高校生まで完璧に分かるものだった数学も、大学生になると、完璧には分からないんじゃないかと不安になった。
数学とて、完璧でないのではないか? という、私を訪れた危機だった。
この本が、私には、難し過ぎたんだ。
森田康夫『代数概論』(裳華房)

- 作者:森田 康夫
- 発売日: 1987/11/20
- メディア: 単行本
「太郎さんでも、数学が分からない、なんてことになってるのね。その危機は、どうやって乗り越えたの?」
私に取って、図書館で、数々の文献に当たりながら、頭が整理され、目標は、
『数学において正しいとはどういうことか?』
という問いに答えることだと、分かった。
「正しいかどうか、なんて、人によって、違ってちゃいけないの?」
それでは、数学は、できない。
少なくとも、他人を納得させるには、他の人と同じ土俵で戦わなければ、意味がない。
その最低限のルールとして、私は、愛読書ナンバー2の『数学基礎概説』を選んだ。

- 作者:猛, 大芝
- 発売日: 1987/10/20
- メディア: 単行本
「これ、ボロボロだったわね。太郎さんの愛読書ナンバー2とナンバー3はボロボロなのに、ナンバー1がボロボロでないのは、どうして?」
それは、正直に書くとナンバー1の本は、まだあまり読んでないからなんだ。
「なんだ、それだけか。太郎さんには、数学の2冊みたいにボロボロにした、物理学の本は、ないの?」
テイラー/ホイーラー『時空の物理学』(現代数学社)
くらいかな。
「やっぱり相対性理論の本ね。私が…」
このように、『数学基礎概説』を読みながら、4つのゼミをやってたので、他の本は、読めなかった。
「なるほど」
さて、2年生の終わりに近づいた頃、『多様体の基礎』を読み、『ホーキング&エリス』に力をもらって、私はついに、一般相対性理論というものを、理解し始めた。
確か、1993年の1月だったと思うが、川口周君が、4年生向けの講究のガイダンスがあるんだ、と言い出した。
「『講究』って?」
例えば、文学部だったら、日本文学を専攻しました、とか、フランス文学を専攻しました、とか、心理学を専攻しました、とか、哲学を専攻しました、って言うじゃない。その、『専攻』のことだよ。
「じゃあ、どんな講究が、あったの?」
行ってみて分かったけど、次のようなものだった。
数論
代数的位相幾何学
物理幾何学
複素幾何
複素関数論
表現論
確率論
数理物理学
数値解析
非線型問題
代数解析学
微分作用素のスペクトル理論
「うっわ、すごい数。19も、あるじゃない。数学だけで、こんなに分野があるの?」
見てもらうと分かるとおり、コンピューター科学は、含まれていないでしょ。
「あっ、そうね。京都大学には、計算機科学科は、ないの?」
これ、1993年の私のときのだから、まだインターネットもなくて、コンピューターシミュレーションとか、コンピューターグラフィックというのは、好きな人が勝手にやってるという時代だったんだよ。
2008年度の教科の手引きには、離散数学・計算機科学講究というの、できてる。
「どうして、2008年の手引きを?」
放送大学から、京都大学に移ろうかとか考えたって、話したじゃない。あのとき、大学に問い合わせたら、送ってくれたんだ。
「狭い家なのに、そんなものまで取ってあるの?」
今回のように、役に立つことがある。
「それで、19もあって、どう思った?」
分野の名前とかじゃなくて、複素多様体として話した、上野さんの
『ツイスター理論というものを、ペンローズという物理学者が提唱しているのだけれども、それを数学的に定式化すると、非常に分かりやすくなると言われていて、それについて書かれた本を読みます。多分学生は、ツイスター理論の準備をしたところまでしか、読めないでしょうが』
と言ったのが、すっごく面白そうに思えたんだ。
「太郎さんは、そのツイスター理論というものを、知ってたの?」
名前だけは知ってた。
「ふーん。大したものね。どうして知ってたの?」
これも、グライダー部の親友からなんだ。
「えっ、あの、英検1級で、公認会計士の人?」
そう。入学早々、ファインマン物理学のゼミで、相対論の話をしていたとき、彼が、
『ツイスター理論というものがあって』
と言ったので、私が、ちょっと待って、と言って、ルーズリーフ(当時はノートでなくルーズリーフを、よく使っていた)に、書き留めていたら、
『向学心に燃える人』
と、からかわれたんだ。
私は、その後、図書館で調べた。
探しても、探しても、『ツイスター理論』などというものが載っている本はない。
諦めていた1年生の終わり頃、次の本の最後の各理論の関係を表した絵に、かすかに、『理論』とあった。

- 作者:堀川 穎二
- 発売日: 2015/01/16
- メディア: 単行本
『やった!』
というんで、次に彼に会ったとき、
『ツイスター理論って、やっと見つけたよ。どうして知ってたの?』
と、聞いたら、
ナッシュ/セン 『物理学者のためのトポロジーと幾何学』(マグロウヒル出版)
『この本で、読んだんだ』
って、見せてくれた。
その本は、彼が持っていることは知っていたが、私が、まず見ない本だった。
「えっ、どうして、見ないの?」
数学的厳密さを犠牲にして、書いてある本だったからだよ。
「ああ、『物理学者のための』が、いけないのね」
そういうこと。
「あっ、だから太郎さんは、数学的に厳密に、ツイスター理論を、知りたかったのね」
そうなんだよ。1年生の終わり頃から、ずっとツイスター理論を知りたかったのに、1年経って、数学の先生が、『ツイスター理論を読もう』って、言ってくれたんだから、嬉しかった。
「上野先生が、言ってくれたのは、2年生の終わりよね。当然太郎さんは、1年早く3年生で複素多様体論を、専攻するわけよね。そこの苦労か何かを、書いてくれなきゃね」
まず、この投稿が、どういう方向に向かうか分からないので、後で書く余裕がなくなる可能性のあるものを、今、書いておこう。
ツイスター理論というもの自体を、私は、まだ知らない。
だが、人づてに聞いた話では、アインシュタイン方程式という偏微分方程式の解がひとつ見つかると、そこから芋づる式に、いくつもの解を見つけられるのだという。
その方法のひとつが、ツイスター理論なのだそうだ。
話が抽象的なので、少しでも具体的に書くと、シュワルツシルド解を見つけると、そこから、カー解が見つかる、というようなこと。
これが、私のツイスター理論の、イメージだった。
だが、麻友さんにウソを書いてはいけないと思って、かなりインターネットとか、文献とか、調べたんだよね。
そうすると、シュワルツシルド解からカー解を導くのは、ニューマン/ジャニス/アルゴリズムと呼ばれるもので、ツイスター理論とは別のものだったんだ。
ニューマン()は、このニューマン/ジャニス/アルゴリズムの論文
E. T. Newman and A. I. Janis. “Note on the Kerr Spinning-Particle Metric”. Journal
of Mathematical Physics 6.6 (June 1965), pp. 915–917.
doi: 10.1063/1.1704350.
と、同じ年1965年に、ペンローズ()と共著の別の論文も書いてるけど、ツイスター理論の論文は、1967年にペンローズひとりで発表している。
ジャニス()が、どう関わっているかは知らないけど、ツイスター理論で、ひとつの解から芋づる式に解が見つかるというのは、私の勝手な思い込みだったかも知れない。
「そのニューマン/ジャニス/アルゴリズムというのなら、確かに解が導けるの?」
これはねぇ、日本語の文献が、多分ないんだよ。
私は、この本の第19章で見つけた。

Introducing Einstein's Relativity
- 作者:D'Inverno, Ray
- 発売日: 1992/06/18
- メディア: ペーパーバック
「日本語の文献がない、ということが、結構あるのね」
それだけ、専門の立ち入ったところまで、行ってる、ということなんだけど、英語が万能でもないんだよね。
「どういうとき?」
以前、アーベルの話をしたとき、数学のメッカは、フランスだと書いたよね。
「ああ、変なこと言うな、と思ったわ」
ドラえもんのブログで、ガロア理論や、公理的集合論や、解析学の話をしようと言ったよね。あのときの公理的集合論のテキストの『現代論理学』のゴールは、ゲーデルの第二不完全性定理なんだ。
「ああ、ドラえもんのブログで、色々話してくれてたわね」
それでね、第二不完全性定理が、ゴールなんだけど、証明は、第一不完全性定理までで、ストップしているんだ。
「どうして、最後まで書かなかったのかしら」
これには、ゲーデル自身が、関係している。
「どういうこと?」
ゲーデルは、1930年、第一不完全性定理を証明することに、成功した。
これには、きちんと証明も付けた。
ところが、学会で、その成果を発表したところ、あの『悪魔のように鋭い』とか『実は悪魔だった』とまで噂されたノイマンが、それを聞いていて、たちどころに理解し、
『これだけではない、こんなものも証明できる』
と、ゲーデルに第二不完全性定理のできたてのアイディアを話したのだ。
慌てたのは、ゲーデルである。
きちんと第二不完全性定理の証明を付けてから、論文を発表するか、それとも、既にできている第一不完全性定理だけでも発表するか、迷った。
「どうしたの?」
これは、科学の歴史で、何度もあることなんだけど、完璧主義になったら失敗するんだよね。
「例えば?」
麻友さんと一緒に冒険することになっている、量子力学の基本の方程式は、シュレーディンガー方程式というんだけどね。
「ああ、シュレーディンガーって、前にも聞いたわ」
そのシュレーディンガー方程式というものは、見た感じもちょっと変だし、スピードの速い電子などには使えない、ちょっと不満の残るものだったんだ。
「どんな形か、ちょっと見せてよ」
ときと場合によって、色々係数は変わるけど、
というようなものなんだけどね。
シュレーディンガーも、スピードの速いものも扱える、つまり相対論との相性の良い方程式を探してたんだけど、今は無理だと思って、妥協案のシュレーディンガー方程式を思い切って、発表したんだ。
「どうなった?」
これが、大成功だった。妥協案ではあったんだけど、シュレーディンガー方程式は、解きやすかったんだ。
相対論と相性の良い、ディラック方程式というものは、2年後の1928年に、ディラックが発表した。
「それも、形だけ見せて」
細かい説明は、できないけど、
というようなもの。
「シュレーディンガー方程式には、上向き三角、ディラック方程式には、下向き三角、があるのね。かわいいわね」
上向き三角は、ラプラシアン。下向き三角は、ナブラという。
「えっ、上向き三角は、デルタじゃないの?」
デルタ?
あっ、そういえば、ラプラシアンって、デルタに似てる。
「似てるって、私には、同じように見えるけど」
このブログに書くときは、テフの制約上、ラプラシアンを、[tex:{¥varDelta}]で出したから、デルタと同じで当然だと思ってた。
デルタとラプラシアンって、違うのか?
「太郎さんは、ノートに書くとき、区別してないの?」
私は、ノートに書くときは、次のように、書き分けている。
デルタは、大きく斜めに、ラプラシアンは、正三角形がちょっと傾いた感じに、書いてる。
「鈍角三角形というのは?」
ひとつ、90度より大きい角のある三角形。
「だとすると、鋭角三角形は、全部の角が90度未満の三角形ね」
そう。
残ってるのは?
「ひとつの角が、直角の、直角三角形」
さすが、特待生。
「テフでは、どう使い分けているの?」
デルタは、[tex:{¥Delta}]で、
ラプラシアンは、[tex:{¥varDelta}]で、
続けて書くと、
と、ちょっと違うけど、いきなり一方を見せられても、どっちだか分からないね。
「ネット上に、使い分けの情報はないの?」
文脈で分かるんだよね。私が、『使い方』を書いたように、デルタやラプラシアンの後ろに何が来てるかで、ほぼ必ず分かる。
「本当に、ネット上にも、役に立ちそうな情報は、ないわね。でも、太郎さんのような、鈍角三角形のデルタは、表示できないの?」
テフで表示することは不可能ではないけど、特別なフォントのパッケージを読み込まなければならないみたいで、はてなブログの環境では、無理みたい。
って、麻友さん。ずっと私のそばにいて!(頼)
「えっ、なに? 急に?」
ここで、傾いたデルタを表示させる方法を見つけようと思って、テフの本を4冊も調べて、ネット上も調べて、すごく勉強になった。
麻友さんの前に、ウソを書かないようにしよう、と思うから、こんなに一所懸命になるんだよ。
いてくれなきゃだめ。
「そりゃ、太郎さんに取って、私が、大切なのだろうことは、分かるわ。数学の動画を作るという口実を作って、ふたりが会えるようにしてくれたのも、分かってる」
「でも、太郎さんの側に、実績がないのよ。本当は、『ホーキング&エリス』を、太郎さんが訳し終われば、それが、実績になったのよ。でも、放り出しちゃった。ホーキングの本を訳したって言えば、秋元康さんなんかもみんな、『おー!』って、なったはずなのに、もったいないわ」
うん。あれが、成功していれば、立派な肩書きになったのは、分かってる。
でも、逆にいうと、最初に訳す本にはとうていできないほど、レヴェルの高い本だったんだ。
私が、あれをいい加減な訳で、出版したりしたら、
『松田という人は、この程度の人か』
と、学者としての面目を失うところだったんだ。
「でも、そんなレヴェルの高い本だからこそ、太郎さんが、訳せば、私だって、物理学者・数学者松田太郎を、推せたのに」
いや、本来、私は、そんなに推されたら、困るんだよ。
「えぇっ?」
麻友さんは、今年から人間1年目という感じなんだろ。私だって、物理学者・数学者としては、今から1年目みたいなものだよ。だって、博士号どころか修士号だって持ってないんだよ。
「太郎さんは、何が不足してると思うの?」
例えば、理学部で博士号を取った人で、研究者になろうという人は、まず、大学1年生などの演習の面倒を見たり、採点をしたりということを、ある程度の期間するものだ。
こういう他の人の教育や、試験の採点というものをやらないと、教わるばかりの時には分からなかったことを、吸収できない。
「でも、『ホーキング&エリス』に、それが、必要なの?」
『ホーキング&エリス』に、いつまでも、こだわっちゃ駄目だよ。
あの本は、ピンチヒッターを立てて、訳してもらっているのだから。
「太郎さんは、放り出しちゃうの?」
そんな、無責任なことは、しないよ。
校閲は、することになると思う。
「訳せないのに、校閲は、できるの?」
そりゃ、訳す方が、遙かに、大変でしょう。日本語の文章を作るのと、日本語の文章を直すのとでは、えらい違いだ。
「でも、『ホーキング&エリス』は、太郎さんの愛読書ナンバー1だったんでしょ。熱意は、ないの?」
私に取って、物理学や数学に対する熱意って、前ほどじゃないんだ。
「その熱意どうなっちゃったの?」
麻友さんに、向かうようになっちゃったんだよ。
「じゃ、私が、太郎さんに、『ホーキング&エリス』訳してって言ったら?」
無茶苦茶なこという。
せっかく生け贄になりかかってるの、助けてあげたのに。
「期限は、いつまでなの?」
今年いっぱいで訳せば、間に合う。
でも、そんなこと、不可能だし、訳者からは降りて、もらった着手金も返したし、私の訳を作っても、自己満足のためだけに持っていることになる。
「それでもいいのよ。太郎さんの訳を作っておけば、校閲の時だって、隅々まで目を配れる」
そう考えてるの?
「世渡りは、太郎さんより、私の方が、上手いのよ」
まあ、所得から判断すると、そうなるね。
「何ページの本なの?」
391ページまで。
「今までに、何ページ訳してあるの?」
23ページ。
「たった、それだけ?」
だから、不可能なんだって。
「いや、たとえそうでも、残り半年で、370ページくらい訳すのよ」
もう。
「私が、悔しいのよ。私が、この身を捧げる男の人が、こんなに男らしくないなんて」
「私のハートを自由に使っていいのよ」
麻友さんの名誉のためか。
「そうよ。私に取っての男の人は、太郎さんだけなのよ。その男の人が、こんなにふぬけじゃ、私嫌だわ」
それなら、もっと早く言ってくれれば、まだなんとかなったかも知れないのに。
「今から、やりなさい」
分かったよ。
こうして、私は、『ホーキング&エリス』の私なりの訳を作るのを、再開した。
さて、脇へそれた話を戻しておこう。
ラプラシアンのあるシュレーディンガー方程式は、妥協の産物だった。
一方、ナブラのあるディラック方程式は厳密な式だけど、解くのが遙かに難しいので、今でも、シュレーディンガー方程式が一般には、使われている。
ほどほどで妥協したシュレーディンガーは、物理学史上に、永遠に残る式に、その名を刻むことができた。大成功だったのだ。
ただ、物理学者たちは意地悪なもので、量子力学を創ったハイゼンベルグには1932年のノーベル物理学賞を単独で与えたのに、翌年1933年のノーベル物理学賞は、量子力学を使いやすくしたシュレーディンガーとディラックふたりに与えたのだ。
「ふたりだと、だめなの?」
賞金が、半分でしょ。
「あっ、そういうことか」
このように、完璧主義を諦めた人が、成功した例は、他にもある。
「そうすると、ゲーデルは?」
第一不完全性定理の完璧な証明を付けた論文の最後に、第二不完全性定理というものも、これから導けますよ。と書いて、証明の概略だけ書いて、論文の題名の最後に、『Ⅰ』と付けて、後で『Ⅱ』で証明を補いますよ。としたんだ。
「それが、成功したの?」
うん。大成功。
ノイマンたち優秀な数学者は、それだけで、理解したんだ。
「『Ⅱ』は、発表したの?」
そこが、ゲーデルも人間で、『Ⅰ』だけで疲れ果てちゃって、書けなかったんだ。
「えー、ゲーデルだらしない」
いや、これは、簡単なことではなかったんだ。
ゲーデルの論文は、1931年に出版されたんだけど、その後、ヒルベルトとベルナイスというふたりの人が、論文ではなく、本として、
という2冊かけて証明したんだ。
「2冊目が、1939年ってことは、8年もかかったの?」
そうなんだよ。ゲーデルひとりでは大変だった。
「その本は?」
これだよ。
「えっ、これ、der とか言って、ドイツ語じゃない?」
そうなんだよ。ドイツ語なんだ。
「訳本は?」
なんだけど、これには肝心の第二不完全性定理の証明は書いてない。抄訳なんだ。
「英訳は?」
ないんだ。
「まさか」
フランス語訳(と、ロシア語訳?)しか、ないんだ。

Fondements (t2) des mathematiques
- メディア: ペーパーバック
「うっそ、英訳がないなんて」
だから、数学は、フランスがメッカだって、言ったろ。
「第二不完全性定理の証明を読むには、ドイツ語かフランス語かロシア語が必要なの?」
私も、つい最近まで、そう思っていた。
このように、ゲーデル自身が書かなかったことも原因で、『現代論理学』の証明は、第一不完全性定理でストップしてしまったのだろう。
でも、実は次の本が現れた。

- 作者:Tourlakis, George
- 発売日: 2006/09/08
- メディア: ペーパーバック
「英語の本ね。2010年?」
実際には、2003年に発刊されてたみたい。
この本の著者が、第二不完全性定理のきちんとした証明を、英語で書いてくれた。
でも、1939年から2003年まで、64年間もドイツ語の原書とフランス語訳とロシア語訳しかなかった。
数学を学ぶのに、フランス語が必須というのが、分かるだろうか?
「確かに、英語が万能ではないのね」
「ところで、ペンローズのツイスター理論が、どういうものか、というところから、英語の文献の話になったのよ。ツイスター理論については?」
今はまだ、私には、分かっていないということを、きちんと書いておこう。
上野さんのゼミで、色々習ったけど、ツイスター理論までは、行かれなかった。
「それで、3年生で、専攻を始めたことの苦労を、話してくれるはずだったけど」
そのつもりだったけど、ちょっと文字数が多くなりすぎたね。
面白くしようと思って、色々書いていて、もう11,200字になっちゃった。
「じゃあ、次回というわけね」
うん。
「太郎さん、約束したの、覚えてるわね」
どうして、麻友さんが、あんなに、勇気を持って、私を、叱咤激励できたか、分かってたかな?
「どうしてって、理由があるかしら?」
この間、5月5日のこどもの日に死んだおばあちゃんのお骨を山梨から運んできて、半日だけ移動のために、私の家にそのお骨が預けられていたんだ。そのお骨があったとき、あの部分書いてたんだよ。
おばあちゃんが、麻友さんと私を幸せにしてくれようと、力をくれたのかも知れないんだと、後で気付いたんだ。
「力をもらっただけじゃだめなのよ。発揮しなきゃ」
麻友さんも、8月4日からの連続ドラマ『いつかこの雨がやむ日まで』や、9月1日からのミュージカル『シティ・オブ・エンジェルズ』、10月6日のファンクラブイベントと、色々あるんだね。
「やっぱり、夫婦って、釣り合ってないと上手くいかないと思うの。太郎さんが、全く駄目な人じゃ、困るのよ」
あくまで、結婚にこだわるのか。
「太郎さんと、動画作ってて、他の男の人ともつき合うなんていう器用なことは、私できないの」
23歳も、離れてても、いいのかい?
「太郎さんが、結婚、結婚って、言ったんじゃない」
それは、認める。
でも、私たちは、特別なカップルだからね。
社会で弱い立場にいる人達の気持ちも、分かってあげられなきゃいけないんだよ。
「私が、太郎さんを選んだ段階で、その意思表示はできてるわ。さあ、『ホーキング&エリス』訳し始めて」
じゃあ、始めるか。
「じゃあね」
うん。バイバイ。
現在2018年6月23日14時51分である。おしまい。