現在2008年1月9日21時04分です。
今年の初めに私が起こした、過失傷害事件が、取りあえず、被害者のおじいさんが入院するというところまでこぎ着けて、私としても、やっと一息して、自分の人生の今までの見方を反省をしていた昨晩。結局眠らず、かなりとんでもない投稿を今朝したのだが、あれは、誇張はし過ぎてはいない。
私は確かに、多分に人生というものをなめていた、と思う。親友達にウソをつくとか、そういうことではないのだが、社会にウソをつくような恥ずべき人生を、一時送っていたのは事実だ。
私はやっと、自分のいる立場に気付いたのだ。
それはすなわち、自分は健常者ではなく、まともに健常者と張り合って生きていける能力はない、ということを、悟ったということだった。
私が、そうやって、打ちひしがれながらも、足の怪我のために病院へ行っていたお昼頃、私のあの、12月にウニを食べさせてくれた親友から、携帯にメールが入っていた。
それは、
「お前はまだ、9回の裏ツーアウトランナーなしなんかじゃない、3回裏にいるんだぞ!」
という、激励のメールだった。流石に36歳の私を3回の裏とは、随分と若く見てくれたものだと、思わず、周りの人も気にかけず、ゲラゲラ笑ってしまったのだが、彼の言葉は温かかった。
そして、最後は、
「明日の晩泊まりにいって、話聞いてやろうか? ウニおごってやるよ(笑)」
と、締めくくられていた。私に、生き方は変わるかも知れないが、あくまで、この世界の主人公として、生きていこうという、決心をさせるに充分な、言葉だった。
以前、ロバート・レッドフォード監督の「普通の人々」という映画を家族で観たことがあった。精神に障害を持ってしまった、息子をめぐる、家族の苦悩を描いた映画だった。
この映画を観た時、私達家族は一様に、不思議な気がした。それは、肝心の障害者の役を演じた息子の俳優が、主演として最初に名前が出ず、父親役の俳優が主演だったのだ。そして実際、息子の俳優は、アカデミー助演男優賞を取ったのだ。
なぜ、父親が、主演なのか、あの時は分からなかった。だが、今朝の投稿をしながら、私は、障害者の父親というのが、どれほど重要な存在なのか、ということを実感したのだった。
障害者の父親こそ、主人公。それは、ある意味、私の家族で、実証されたことにもなったのである。
だが、私は、障害者なのだ、ということを受け入れた上で、改めて、自分を主人公として、人生を生きていく決心をした。
これは簡単に言えば、オリンピックを目指していた選手が、致命的な障害を負ってしまい、オリンピックを目指せなくなったが、生き方を変えて、パラリンピックで、優勝することを目指すことに切り替えた、というのに似ている。
私は、別に、障害者の中で、一番の高給取りになろうとか、そういうことを考えているわけではないが、あくまでも、障害者の土俵で、相撲を取ることに、頭を切りかえていこうと決心したのだ。
私には、大学の先生になって、学生の面倒を見たり、物理の研究者になって、学説を戦わせることを本業とすることは、無理だ、と、やっと、納得できたのである。
だからといって、私は、以前の会社でのように、コンピューターを用いた、何か、技術者としての道を探そうという気はない。
私は、根本的に、技術者というのは肌に合わないのだ。むしろ、障害者の自立を援助している、レストランの厨房で、お皿を、のろいのは分かっていながら、必死で洗っている方が、精神的に楽なのだ。
私が精神をとぎすますのは、あくまでも、趣味でやっていく、全文写しの数学と、統一理論を目指す、ライフワークの物理をやる時なのだ。
私の本当の集中力は、一日に2時間半くらいしか、もたない。その貴重な2時間半をパソコンに向かって、消費してしまうのは、私には、苦痛なのだ。
だが、こうやって、少し、ゆとりを持って、人生を見てみると、足を怪我してしまって、仕事もできない、この1月くらい、昔から、一度は登ってみたいと思っていた、コンピューターのエベレストに登攀(とうはん)してみても良いかな、と思えてきた。
以前の会社にいたとき、先輩の技術者は、
「コンピューターなんて、ブラックボックスだよ。これを入れたら、これが出てくる、というのが分かりさえすれば、後は、難しいこと、考えなくても良いんだ。」
といって、サッサと仕事を片付けていた。だが、私は、それはいやだった。
仮にも、コンピューターの技師になるのなら、例えば、誰かが見学に入ってきて、コンピューターを眺めて、そのCPUの中の一本の線を指して、
「今、この電線の中を、電子は右から左に動いているのですか?それとも、左から右へ動いているのですか?」
と、質問されたとする。
それに対し、CPUの回路図を開き、
「ここからここへつながっていますから、今は、右から左に動いています。」
と、答えられるように、私はなりたかったのだ。
だってそうだろう。数学者が、見学に入ってきた学生に、自分の論文を見せたとして、
「この記号はなんの作用素ですか?」
と、質問されて、答えられない、なんてことがあるだろうか。あるいは、理論物理学者が、黒板に書いてある数式を見て、
「あの式は、どうやって導いたのですか?」
と尋ねられて、
「とにかく、あの式が正しいことだけは分かっているんだ。でも、あれを思い付いたのは、私ではないから、私には導けない。」
で、済まされるだろうか。やっぱり、式を一本でも書くのならば、それを書くに至った、自分の思いを、例え30秒間でも、説明したい、という気持ちになるのではないだろうか。
私が、納得する、というのは、そういうことである。
つまり、自分のやっていることに、ある意味で、哲学があるかどうか、ということなのだろう。難しくいえば。
コンピューターは、ブラックボックスだ、というのも、一つの哲学かも知れない。だが、私の哲学では、それは認められない。そういうことだ。
これが、私が、技術者になれなかった、最大の原因である。
物理のアイディアが、ポンポン湧いてきて、どんどんジャンプしていくこともある、だが、私の中では、その飛躍は常に必然であり、決して、空想の産物ではないのだ。後で、ここでどうしてこのアイディアが生まれたの、と、尋ねられれば、常に、例えそれが、ニュートンのように、リンゴが木から落ちるのを見たから、とか、ポアンカレのように、乗合馬車に乗ろうとして足を踏み出したから、というような、一見突飛に見えることであっても、私なりの理由を、示すことが出来る。
そういうのが、私の科学であり、そうでない時には、私は不安になってしまって、自分の存在意義まで見失うほどになってしまうのである。
サイエンス・ライターというのも自活できるほどになるためには、相当どんどん本を書かねばならないだろう。
私には、そういう、健常者のような芸当は無理なのだ。それを認めよう。
私の科学の勝利は、いつの日か、私の趣味が、本当に、実を結んだ時、達成される。それは、パラリンピックで、入賞を目指していたのだが、いつの間にか、ギネスブックに載るような、特殊な能力を得ていた、というようなものである。
私の人生、70年と思っていたが、今日のクローズアップ現代を見ていたら、第2次世界大戦の戦争の傷跡を80歳になってやっと、癒すことが出来た、日本とアメリカのかつての野球少年達の映像が映っていた。今の時代、人生70年で諦めるのは、早いのかも知れない。
もっともっと貪欲に生きてやるぞ、という、意気込みこそ、今後の障害者としての、就労において、一番必要とされているものなのだろう。
また美味しいウニをおごってもらうため、私は、かの親友の友として、ふさわしい、まっとうな人生を送っていこう。
今日はこれで2回目だが、ここまで。
現在2008年1月9日22時49分です。おしまい。