現在2008年11月17日0時53分である。
今年に入って以来、なんとなく中途半端な身分で、幸せでないことはないが、未来が必ずしも明るくない、というような生活を送ってきて、かなり悩むこともあった。
悩むといっても、私の場合、
「私にとって、どんな生き方が出来れぱ、幸せに感じられるのだろう。」
という、非常に基本的なところから、考えることになる。
まだ結婚もしていないし、子供もいないから、非常に自由と言えば自由だ。強盗や殺人でもしない限り、何をやっても、まだまだ、取りかえしが付く。
今日は、実家に、7月に結婚した私の弟が、お嫁さんを連れて遊びに来たので、私も実家に帰って、遊んできた。
幸せそうな2人を見ていて、彼らが、その幸せの代償としたものを考えていた。
私の弟は、7つ年下なのだが、現役で大学に入って恐らく、3年生か4年生の頃から、彼女と付き合い始めたはずだった。だから、結婚するまで、10年近く経っている。
弟は、まだ今まで余り、ブログには登場していなかったが、学校での成績は、私や、私の妹ほど、出来た方ではなかった。だが、私に対して、ある意味、コンプレックスを感じざるを得なかった妹ほど、私の悪影響を受けなかった。
そして、何より、我が家の子供の中で一番、色んなことをやった子供だった。
まず、私は、大学にはいるまで、アルバイトをやったことはなかったのだが、弟は、高校2年生の夏休み、山小屋へアルバイトに行き、30万円くらい稼いできたのだ。
そして、それを何に使ったかというと、アラスカへ、一人旅に行くのに使ったのだ。
私が、妹と同様弟にも、写真の撮り方を教えたので、弟は、その頃は、私が使わなくなっていた、亡き祖父のNikonF2を持って行って、アラスカで、熊やオーロラの写真を撮ってきた。
この写真を見たとき、私は、本当は、祖母は私に受け取って欲しかったかも知れないが、NikonF2を受けつぐのは、弟の方だと、感じて、もう写真は撮らなくなった。
学校の成績が悪かったのは、マンガばかり読んでいたからなのだが、その.弟が、私から釣りを教わると、これにものめり込み、やがて、開高健(かいこう たけし)の「おーぱ!」という釣りのことを書いた、本を読むようになった。
最初が開高健だったからなのだろうと、私も母も思っているのだが、やはり、大作家から出発したために、弟はフィクションにせよ、ノン・フィクションにせよ、ものすごい王道を進んでいった。
7つも年上の私よりも先に、ヴィクトル・エミール・フランクルの「夜と霧」を読んでしまったときには、私の方が慌てて、後から読んだほどだった。
数学の才能は、なかったと見えて、理系科目はとことん駄目だったが、なんとかがんばって、現役で大学に合格し我が家でただ一人、四大卒の子供となった。
妹は、これをいつも
「面白いよね。」
と笑う。
京都大学へ行った、私が中退し、成績が良かった、妹が、短大なのに、一番、成績の悪かった弟が四大卒なんて・・・
諸君。人生なんて分からないものだ、という見本のようなものじやないか。
だが、私の家族というのは、不思議な縁で結ばれていて、こんなことが起こっても、兄弟姉妹3人、非常に仲がよいのだ。
これは、やはり、父と母の育て方が、多分に影響していると思う。
もちろん、子供の頃は、ケンカも結構したので、
「一週間、兄弟げんかがなかったら、レストランに食事に行く。」
なんていう、家訓が父によって提案され、2年間くらいそれが実行されたこともあったほどである。
だが、私達3人には、不思議なつながりがあって、お互い、本当に、信頼しあっている。
今まで、このブログでは、妹のことは、ヴァイオリンのことなどで、書いていたが、弟のことは、書いてなかったので、少しここに書けたのは良かったと思う。
さて、その弟も10年間の交際の後、結婚した。結婚が遅れたのは、私が結婚してなかったからではなく、弟が、結婚資金を貯めるのに、慎重だったからだと思う。
弟は、学校の成績も悪かったように、確かに、頭が切れる、というほどに仕事がバリバリ出来るというわけではないようで、かなり、苦労しているらしい。
それでも、仕事となれば、イタリアまで行って、英語で商取引をしたりしているのだから、数学語もまともに修めきっていない私より遥に立派である。
いつもは忙しい弟とそのお嫁さんと、今日は1日のんぴり過ごしたのだが、私にとっては、まだ、本当に結婚
して、妹や弟のように幸せな家庭を築ける女性には出会っていないな、と感じた。
私は、今までに、かなりの数の女の人を好きになったが、その誰からも、結婚したいというほどに、フィーリングの合う人だという感触を得られなかった。
「好きではあるが、この人と結婚しても、幸せにはならないだろうな。」
という女性ばかりである。
私のブログを見ている人は分かるだろうが、私の家庭というのは、非常に温かい家庭だった。だから、私も自分の家庭を持つとき、このような、温かい家庭を持ちたいと思う。そう思ったとき、私の目に合格となる女性を、私はまだ、好きになっていない。
だが、慌てることはないのだ。まだまだ、人生は長い。
ところで、最近、自分の幸せを考えていて、
「本当は、今が一番幸せなのではないか?」
と、ふと感じた。
あのキュリー夫人も非常な名声と栄誉を得たが、
「私iにとって一番幸せだったのは、実験器具も乏しく、貧しい、寒い実験室で、震えながら、実験していたとき
だった。」
と、語っていたそうだ。
これからまだ、読んでいきたい数学書や物理学書を見ながら、
「これを読んだら、どんなことが分かるのだろう。」
と、胸をときめかせながら、少しずつ読んで行っている、今の方が、これを読んでしまって、取りあえず知識は付いたけれども、私には、数学や物理の才能はなかった、ということになったときよりも、ずっと、幸せなのかも知れない。
また、例え才能があったとして、何かを発見して有名になったとしても、それがそのまま、幸せには結びつかない。
私は、研究だけをやる研究者にはなりたくないので、出来ることなら、先生になりたい。
だが、先生という仕事は、重責の伴う仕事だ。
それを思うとき、まだ、可能性だけがあった今の方が、幸せだった、ということになるのかも知れない、と思ったのだ。
そうは言っても、人間は前に進まねばならない。
私は、名著からも引用するが、マンガからも良いものは引用する。
今では、知っている人は大人ばかりになってしまったかも知れないが、「巨人の星」というマンガがあった。
あの中で、主人公、星飛雄馬(ほし ひゅうま)の父親、星一徹(ほし いってつ)が、息子に次のように諭すところがある。
「江戸時代、坂本龍馬は、『例え、ドブの中で切られて死ぬにしても、前向きに倒れながら死にたい』と、いつ
も言つていたのだぞ。
と。
私も、例え、志半ばで倒れるにしても、前に進みながら倒れたいものである。
私の今後の人生がどんなものになるかは分からない。だが、今の幸せに満足するぱかりでなく、常に、前に進み続けたいと思う。
私は、ベートーヴェンでは、その若々しさの故に、「エロイカ」が、一番好きだが、57歳で死んだベートーヴェンも、35歳で死んだモーツァルトも、その作曲したものは、後へ行くほど、どんどん、良くなっている。彼らもまた、今の自分に満足することなく、常に前に進み続けたのだ。
さて、今の私にとって、
「前に進む」
とは、どうすることなのだろう。
その結論は、本当は出ている。
だが、私はまだ、完全に悩みから解放されてはいない。
それで良いのだろう。今の私に満足してしまったら、終わりなのだから。
今日は、幸せな弟夫婦に会って、自分のことのように嬉しかったので、それにまつわることを書いた。
ここまで。
現在2008年11月17日2時34分である。おしまい。
2011年7月24日3時17分復活させました。
注記
星一徹の言葉は、良い言葉だと思っていたのであるが、「巨人の星」以外のどこにもそういう記述が見当たらず、どうも、「巨人の星」の作者の梶原一騎(かじわら いっき)による創作のようだと言われていることを、今日知った。
諸君も確かめたかったら、Googleで、「坂本龍馬 どぶ」と、検索語を入れて調べてみると良い。
しかし、真偽はどうであったにせよ、この言葉は、人生を
前向きに生きていくのを応援してくれる言葉として、良いものだと思ったので、
敢えて、削除はしなかった。
また、以前は私は、「坂本龍馬」ではなく、「新撰組の連中は」
と、ブログに書いていたのだが、今日復活させるとき、現在の形に
修正した。
以上、現在2011年7月24日4時35分である。おしまい。