現在2019年1月29日21時18分である。
1月27日に、眠くなってしまって、中断した投稿を補うことにするよ。
「でも、言いたかったことは、私に会いたいということだったのでしょう?」
そう、それは、確かなんだ。
でも、ただ会いたい、と言うだけでなく、麻友さんも会いたいと思ってくれるような、理由があるんだ。
「どういうこと?」
あの投稿(『私の単位』という投稿)で、2018年の理科年表を見ると、プランク定数
と、書いてある。
というところで、中断した。
「そうだったわね。22時34分で眠くなったと言って」
あの、2018年の理科年表の値は、実験で計測して求めた値なんだ。
ところが、私が病院に入院中に、プランク定数の厳密値を決定して、質量の単位を定めようとなったんだけど、退院してきて、ネットなどで、一体いくつにしようとしているのかな? と調べたら、
なんだ。
小数点以下7桁目から、違っている。
どうして、精密な実験をして計測してある数を、他の数字にするのだろうと、疑問に思っていた。
そんなとき、今回の精神科の4回目の入院中のことを、考えていた。
入院したとき、血液検査をして、その結果を見せてくれた。
その表に、Eq(エック)という単位で測った数値が書かれていた。
このEqという単位は、あの病院に入院してから何度も見ていた。
『この単位は、どういう単位ですか?』
と聞くと、先生が、
『この単位の由来を聞くのは、ちょっと待って下さいね』
と、言った。
Eqというのの、Eというのが、kなら、Mならのように、Eならであることは、知っていた。だから、Eqは、なのである。
一方で、4年前(2014年)に、最初に精神科に入院したとき、血液検査の結果を見せながら、先生が、
『エックという単位の定義は、忘れちゃったー』
と冗談半分に言ったのも覚えていた。
単位を忘れちゃったーと言い、今は、単位の由来を聞かないで下さいね。というのは、この検査項目の、基本単位を、今決定しようとしているのでは、ないかと、考えた。
私自身を落ち着かせて、私を基準とした単位を、決定しようとしているのではないか?
体重も、関係するのだろうか?
そして、今から4回前、2014年に入院したとき、夜テレヴィで、『はやぶさ2』が、リュウグウへ着いて、ロボットを着地成功できたら、地球上の人の皆の身長が伸びて、宇宙に顔を出せる。というアニメを流していた。
私は、あれを見て、宇宙は本当は、真空ではなくて、息が出来るのではないか? などと考えていたのだった。
物理学を知っている私が、こんなことを言うのも変なのだが、ヘリコプターというものは、ものすごく操縦の難しい乗り物だった。ところが、70年くらい経って、ドローンというものが出来たら、ラジコンカーのように操縦できる。
科学的常識って、余り役に立たない。
人間が、社会生活を営むとき、他の人に何かをしたり、何かをされたりする。
自分に心地よいことをされれば、当然嬉しい。
でも、して欲しくないことを、されることもある。
麻友さんのように、演劇の世界では、厳しいことを監督から言われて、落ち込むくらいのことがあった方が、良いものができることもある。
この世界で、自分の生きたいように生きた人が、本当に、良い生き方が出来たのだと思う。
インドの死を待つだけの人を救った、マザーテレサも、滅茶苦茶なように見えることをやってるトランプ大統領も、人間として、良い生き方をできた人なのだ。
そう考えたとき、本当に好きな麻友さんが、
『太郎さんに会っても良いわよ』
と、言ってくれるなら、会うことだって出来る。
遠慮するのが、美徳とは限らないのではないか?
そう考えて、『私の単位』という投稿を、書いたんだ。
「ちょっと、論理が飛躍してて、分からないこともあるけど、太郎さんが、私も太郎さんも、人間なんだ、会おうと思えば会えるんだ、と気付いたと言うことなのね」
そういうことだよ。
麻友さんは、血液型がAB型で、私はA型だけど、2人は似ているところが、すごくたくさんある。
「♪タイプじゃないと、ずっと言っていたのに、いつのまにか、2人はお似合いのカップルみたいだね~」
私が思うに、私を使って決めようとしていたqという単位は、人間の感情とか、精神や心の働きを測るための基準だったのかも知れない。
「どういう意味?」
以前、ドラえもんのブログでの『水素が酸素を好きって素敵でした』という投稿で、
「じゃあ、聞くけど、太郎さんの私を好きな力は、いくつ分なの? 何か単位があるんでしょ」
と聞かれた。
それに対して私は、
確かに、この質問は、かなり難しい。
なぜかというと、今までに、男の人が女の人を好きになったものを、この二人は、48ニュートン、みたいに表したことが、一度もないから、基準になるものがまったくないんだ。
と、答えた。この、心がどう感じているかの、単位を、私の献体してある体で、測って、麻友さんと私が好き合っている量を、と、定義したのかも知れない。
「心は、好き合う以外にも、色々あるでしょ」
うん。だから、心がどう感じているか? 精神が、どういう状態か、ということが、量として測れるようになったんじゃないかな。
「どうして、出来るようになったの?」
私が、生きているうちから、献体したからかも知れない。
「ああ、だから太郎さんが、人間は、結構好き勝手出来る、なんて、前回の投稿で書いてきたのね。もう、人間は、周りの人と相談して、ある意味自由に生きられるのかも知れないわね」
お金ではなく、周りを説得できる人が、良い人生を送れるのではないだろうか?
「太郎さんを基準にした単位って、なんだったんでしょうね」
どれだけ、ものや人を、大切にするか、に関係あるのかも知れないな。人を好きになるって、その延長にあることでしょ。
この世界のものを見ていると、くっついたり、離れたりしている。むしろ、そのくっつくか離れるかの動きこそが、この世界で起こっていることのすべてだ。
そして、特に水に溶かしたとき、物質は、溶けてばらばらになったりする。
人間の体も、水分は多い。
だから、水に溶かしたとき、どうばらばらになるかは、重要。
そして、そのばらばらになり方が、qなんだ。実際にはものすごく大量にばらばらになるから、Eをつけて、
くらいで、表示するんだろうけどね。
「ふーん。太郎さんの献体って、どういう風に使われたのかしらね?」
私、最初に精神科に入院したとき、京野さんから、『リチウムの薬を使ってみませんか?』と、言われたんだ。
そのとき、
『私は、豊臣秀吉だから、使ってみます』
と、答えたんだ。
「秀吉というのは?」
『鳴かぬなら、鳴かせてみしょう、ホトトギス』
だよ。可能性があるなら、やってみようと思ったんだ。
先生は、薬を処方して、退院後もずっと、3回に1回血液検査をして、
『リチウムの濃度は、今回はこうでした。ちゃんと飲んでますね』
と、必ず言っていた。
リチウムは、飲むと手が震えるかも知れないと言って、私が、『手が震える』と言うと、少し量を減らしたりもしながらも、4年間1度も、リチウムをなくさなかった。
あの、リチウムの実験が、京野さんの、一つの賭けだったのかも知れない。
「そういう形で、献体できたのかも知れないというわけね」
他の患者にも効くと良いなと思っている。
「太郎さんは、お金は稼いでいないけど、社会の役に立っている。だから、私と会うくらいは、許されるのではないか? と言いたいのね?」
それが、飾らない本心だよ。
「どうやって、連絡すれば良い?」
ツイッターのメッセージという機能があるでしょう。
あれを使うか、メールをもらえないかなあ。
私、大言壮語するけど、かなり普通の人だからね。
2度会うと、色々あるかも知れないけど、1回会うというのは、人間として、あってもおかしくないと思うんだよね。
「考えてみる。余り期待しないで」
ありがとう。
「じゃあ、おやすみ」
おやすみ。
現在2019年1月30日1時59分である。おしまい。