現在2018年3月12日11時57分である。
「『日経サイエンス』の記事を書いてきたの、去年の12月5日よ。もう、待ちくたびれちゃったわよ」
私って、あれも読みたい、これも読みたい、と、色々抱えて、なかなか読み進められない本が多いんだ。雑誌もそうなんだよ。
「それで、とうとう読めたのね。統合失調症が、治るかも、という話だったわね。どうやったら、治るの?」
あまりせかさないで欲しいんだけど、治るというのは、少なくとも現在では、薬を飲み続ければ、という段階なんだ。
「ちょっとがっかり」
でも、この『日経サイエンス』の記事の中で、私が注目したのは、次の文章だ。
- 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社
- 発売日: 2017/11/25
- メディア: 雑誌
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病気なのか,病気ではないか
なぜ、小さいオッズ比しか得られないのだろう。ひとつの答えは,精神障害には,病気であるものと病気でないものがあるという特殊性に求められそうだ。
たとえば,夜,車を運転しているときに,ゴトンと何かに乗り上げた場面を想定してみよう。車を止めて街路灯もない暗闇を振り返って見ると,なんと私が乗り上げたものは人の形をしているではないか! 頭が真っ白になった。大変だ,早く救急車を呼ばなくては。倒れている人に走り寄り呼びかけても返事がない。携帯電話で119番する。大変なことになった。絶望的な気分だ。明日からの仕事のこと,家族のこと,世話になった人への不義理など次々と頭に浮かんでは消え,気分は重苦しくふさいでいる。
ところが救急車が到着してみると,なんと私が人だと思ったものは,マネキン人形だった。すると,あれほど絶望的だった気分は,どこかへ跡形もなく消えてしまった。果たして,私の抑うつ状態とはなんだったのだろうか。「人を車で轢いてしまった」という体験と,私の「抑うつ状態」の間には因果関係がある。なぜなら,「人を轢いていなかった」とわかったとたんに,「抑うつ状態」は消えてしまったからだ。
ところが,マネキンとわかっても,なお気分が晴れず,食欲がない,いっこうに眠れない場合がある。こういった抑うつ状態は,「人を車で轢いてしまった」という体験と因果関係がない。なぜならば,「人を車で轢いていない」とわかったのに,抑うつが晴れないからだ。
ハイデルベルグ学派と呼ばれるドイツ精神病理学の泰斗に,ヤスパース(Karl Jaspers)がいる。彼は「人を車で轢いていない」とわかったのにいっこうに晴れない抑うつを「生活発展の意味連続性の切断」と呼び,「人を轢いたかもしれない」という体験から現在の抑うつを心理学的に感情移入しても「了解(verstehen)」――起承転結あるいは因と果の関連ありと認定――できないとした。そして,この「了解不能」こそが,疾患(脳に病変がある)の特徴と定義し,病気の条件としたのである。すなわち,精神症状には「体験と因果関係がある(病気ではない:薬が効かない)もの」と「因果関係がない(病気:薬が効く)もの」がある。言い換えれば,精神疾患には病気と病気でないものがあるといえる。
以上『日経サイエンス11月号』P.56からP.58より引用
「わー。難しい言葉ばっかり」
今は、分からなくてもいい。
この一文を読んで、私が、何を考えたかが、分かればいいのだから。
「太郎さんには、この文章が、完全に分かるの?」
分かっているつもりだよ。だから、これを踏まえて、次の一歩が、歩めた。
「そういうものなの。それで、どう思ったの?」
まず考えたのが、私の統合失調症が、病気か病気でないか。
「どっちなの?」
薬が効いているのは確かだから、まず間違いなく、病気だね。
「あーっ、太郎さんが、自分が病気だとはっきり言い切ってしまうなんて、私、どうしたら良いのかしら」
いや、その方が、良いんだよ。
もし病気でなくて、私が、あんなことをしたとしたら、私は、人間として許されない人なんだよ。はっきり言えば、殺すしかない。
でも、病気が原因で、薬が効くのなら、薬を飲んでいさえすれば、私は、正常な人に混じって、生きていられる。
薬で、正常に生きられるというのは、車いすがあれば、どこへでも行けるという人と、同じことなんだよ。
薬というのを、麻薬やコカインなんかの類いだと思うから、車いすと違うものに思えてしまうんだ。
「睡眠薬?」
そう。私の脳は、自分が働き過ぎになっても、疲れたと気付けない脳なんだ。
だから、決まった時間に睡眠薬を飲んで、必ず1日1回眠らせないと、オーバーヒートして、正常から逸脱した働きを始めちゃうんだ。
私が、京都で4回生の夏に発病して、
『この世界には、ウルトラマンの怪獣なんかが本当にいる』
なんて言い出したのは、4回生になってから、父に学費を止められ、朝日新聞の朝刊の配達をしながら、4年分の単位をいっぺんに取ろうと、ほとんど寝ないで、無茶をしていたから、脳がオーバーヒートして、そのくせ、自分で自分が疲れていることが分からない脳だから、寝ようともせず、頑張り続けたから、異常が起こっちゃったんだよ。
「でも、女の人に失恋したのが、原因のひとつだったんじゃないの?」
それも、原因だよ。
失恋したら、女の人は、髪を切ったり、旅行に出たり、自分のことを振った人の写真を焼いたりするでしょ。
それは、気分転換したいからでしょ。
なぜ、気分転換したいかといったら、相手の人との交際に疲れた脳を、一時休めて、リフレッシュしたいからでしょ。
私は、失恋したのに、お酒も一滴も飲まず、なぜ失恋したんだろう、今からでも修復できないかな、と、ずっと脳を酷使しすぎたんだよ。
この酷使も、私の脳に、ダメージを与えていた。
「ちょっと待って、でも、太郎さんは、いつも、妄想が起こったのが、病気の始まりだと言ってなかった? 脳が疲れるのと、妄想の関係は?」
いい質問だねぇ。さすが、特待生だよ。
そうなんだ。私の場合、統合失調症の症状のうち、見えないはずのものが見えてしまう幻覚もないし、聞こえないはずの声が聞こえる幻聴もないんだ。
これは、今回入院したとき、お医者さんから、
『幻聴はありますか?』
と聞かれて、
『どういうものが、幻聴なのか、分かってないんです』
と言って、幻聴とはどういうものか説明してもらったから、確かなのだ。
「じゃあ、太郎さんの妄想って、どういうものなの?」
つまりね、この世界の物事を正常に受信したのに、それの意味をとらえるときに、正常な人と違うとらえ方をしてしまうことが、たびたび起こるんだ。
たとえば、有名な、
『禁じられた遊び』
という映画を見て、普通の人は、
『戦争は、無情なものだということを表した映画だ』
と、解釈する。
ところが私は、
『戦争とは、こんなに無情なものなんだ。この戦争をなくす方法を考えよ、という問いかけをする映画だ』
と、解釈する。
私は、小さいときから、問題を解くのが好きだった。
だから、この世界全部が、問題集に見えているんだ。
「と言うことは、私は、・・・」
そう。
『渡辺麻友を落とすには、どうしたらいいか』
という問題に見えている。・・・って、麻友さん、その質問は意地悪だよ。
私に、麻友さんを落とす、なんて、そういう発想があるわけないじゃん。
「だって、実際、ここに書いてる」
そう。そこだよ。
私の中では、空想というものと、妄想というものは、明確に区別されているんだ。
空想とは、その場限りの思いつき。
妄想とは、私が信じているけど、実際の周りの人には受け入れられていない私なりの解釈。
私は、小さい頃から、空想で、お話を作るのが好きだった。小学校の頃からずっとだ。
毎晩寝る前に、寝付きの悪い私は、今日見たアニメのストーリーの続きを作ったり、自分を登場させたり、自分だったらここをこうするというように、お話を30分くらい作ってから寝ていたのだ。
今の『渡辺麻友を落とすには、どうしたらいいか』も、この文章の行きがかり上ふと思いついて、『これ、話が面白くなる』と、思って書いたものなんだ。
「それは、太郎さんでなくても、やってるわよ」
そうなんだけどね、私は、広島へ行ってから、友達もいなかったから、社会の常識を、空想に反映させるということが、いつまでたってもできなかったんだ。
その上、高校1年、2年の時は、私は、本当に、数学しかやってなかった。
それが、高校3年生になったとき、受験のために英語をもっと勉強しなきゃ、と思い、1年間数学の研究をストップしようと思ったんだ。
ここでストップしてなければ、恐らく私は、統合失調症を発病していなかっただろう。
ここでストップしたために、私の頭は暇になり、6年ぶりに女の人を好きになり、やがてそこに、
『父母が間に入って何かしている』
などという空想が、始まったんだ。
高校3年の時、数学の研究を継続していれば、現役で受かったかも知れない。京都大学理学部後期は、数学、物理、化学だけだったから。
しかし浪人し、そして、ふとしたことから、空想だった、父母が女の人との間に入って何かしているということが、現実のことだ、と思えたことから、空想が妄想としての性格を帯びてきたのだ。
「いつ頃のこと?」
京都大学入学直前だよ。1991年3月31日。
今でも、覚えている。この日、話し合いで、母が、
『その人には、お姉さんがいるんでしょう?』
と言ったこと。これは、私の知らなかったことなので、
『母達が、本当に、連絡取り合ってるんだ』
と、確信した。
もう一つは、私が、
『それじゃ、今日は会いに行かないよ』
と言ったとき、父ががっかりしたように見えたこと。
この、
『がっかりしているんだ』
と解釈したこと自体が、私の解釈エラーなんだ。この解釈エラーこそ、私の妄想の表れなのだ。
そして、母の『お姉さんがいる』というのも、クロイツェルソナタの女の人に姉はおらず弟しかいなかったことが分かって、母の言葉から、母達が間で何かしていると解釈したのも、解釈エラーであることが、証明された。
「じゃあ、太郎さんは、数学の研究を止めなければよかったと、後悔してるのね?」
いや、私は、あの時、数学の研究をストップして良かったと思ってる。
もし、あのまま数学を続けて、京都大学へ行っていたら、私は、もっと薄っぺらなつまらない人間になっていたと思うから。
「数学の天才だけど、薄っぺらいってどういうこと?」
実は、恥ずかしい話だけど、高校3年生で、数学の研究をストップするまで、女の人とのことって、何も知らなかったんだ。
「知らなかったって、どれくらい?」
女の人に、
『好きです』
ということを、告白っていうことすら知らなかったんだ。
「えっ、告白っていう単語知らなかったの?」
私は、神様に罪を告白する、という使い方しか、知らなかったんだ。
過去ログをあされば、私が高校3年生になるまで、SF小説3冊と、『囁く声』と『ビロードの爪』というミステリーと、『Yの悲劇』、『Xの悲劇』という有名なミステリーと、『罪と罰』以外、小説というものは、読んでなかったことが分かる。
だから、告白という言葉の恋愛での使い方を知らなくとも、不思議はないんだ。
「でも、太郎さんって、高校時代は、バレンタインにチョコレートとか、もらえ・・・るはずないか」
男女共学だから、周りにいくらでも女の子はいた。
でも、恋愛の対象として、見てなかったんだよ。
「ん-。私も、同罪かも。男の人を、恋愛の対象として見るってことは、太郎さんに教えられるまで、なかったもの」
おいおい。それじゃ、女優になれないぞ。姫川亜弓さんのように、頑張れ!
「それで、頑張ったのが、『サヨナラ、えなりくん』なんじゃない」
うん。涙ぐましい努力は認める。
「ちょっと、太郎さんの病気の話から、それてるわよ」
そうだったね。
私が、いつも、この病気を発症してなかったら、多分、4回生の終わりに自殺していただろう、というのは、もしそういう数学だけの薄っぺらい天才だったら、天才として才能を発揮できれば、良いけれども、失敗したら、即自殺することになってただろうと、思うからなんだ。
「太郎さんは、天才として、どんなことをしたかったの?」
ノーベル賞全部門と、フィールズ賞をもらいたいと、思っていた。
「わー、欲張りって言うか、本当にそんなことできると思ってたの?」
できると思ってた。
「どうやったらそんなこと、できるの?」
簡単だよ。
数学の問題を、全部解く。これで、フィールズ賞。
次に、数学の全ての問題が解いてあるので、超伝導を常温で可能にする方法を、物理学と計算で導く。これで、ノーベル物理学賞。
次に、物理学を用いて、あらゆる物質の性質を導く。つまり、化学者の仕事を全部やる。これで、ノーベル化学賞。
次に、化学を分子生物学に応用して、人を死なないようにする。これで、ノーベル生理学・医学賞。
次に、人を死なないようにすることで、戦争を意味のないものにする。これで、ノーベル平和賞。
次に、人が死なないのだから、経済というものが、意味を失い、経済学の全ての問題を解いたことに対して、ノーベル経済学賞。
最後に、この数学の全問題の答えを、小学生が読めるような易しさで、百科事典として書き、その功績で、ノーベル文学賞。
主要7部門、全部門制覇完了。
「太郎さんには、それを実現した将来の自分が、見えていたのね-」
これくらい、私の空想力にかかれば、いつでも思いつけるよ。
「どこで、歯車が狂ったのかしら」
実は、数学の問題を全部解くってことが、できないことだったんだ。
「えっ、だって、一番最初の仮定じゃない」
そう。私は、数学というものが、永遠に続く、ということを、知らなかったんだ。
「それは、証明されているの?」
そのこと自体が、何らかの仮定を置かなければ、証明できない。
「何も仮定せず、証明できることってないの?」
ある意味ない。
自分の論証能力が、正常に働いていると信じないことには、証明のチェックができない。つまり、証明が正しいかどうか、自分は判定できるんだ、という神様のような立場に自分を置かなければ、誰かの証明や自分の証明の正しさを、確信できないことに気付いたんだ。
「いつ頃?」
大学2回生の時。
「それまで、7部門制覇は、太郎さんに取って、現実だったのね」
そう。
「恐ろしい人ね」
でも、麻友さんが、根拠もなく、AKB48に受かると、感じていたというのも、私の砂上の楼閣の根拠によって、主要7部門取れると思ってたのも、そんなに違わないように思うなぁ。(笑)
「それで、お金は、どうするの?」
以前は、ノーベル賞各部門から、1億円もらえるから、フィールズ賞の300万円と合わせて、6億300万円の収入がある。だから、老後は安泰だと思っていた。
「でも、賞はもらえないのよ」
それで、考え出したのが、本当にお金という概念をなくすという発想。
結局、私にとって、生活のために働いたことって、ないんだよね。
「それを、恥ずかしいと思わないの?」
思わないんだよ。これも、解釈エラーなのかもしれないけど、
『労働をしなければ、欲しいものが得られない』
という考え方は、父にとっての価値観で、私には、正しい認識とは思えないんだ。
「でも、太郎さんは、数学ができるのに、デイトレーダーになって、株でもうけようともしないのね」
麻友さん分かってない。数学ができるから、株をやらないんだよ。
株でもうけるってのは、誰かにお金を委託して、
『これで、資産運用してください』
と言って、増やしてもらう場合だけ、安全なんだよ。
それでも、ノーベル賞委員会が、2012年に資産が焦げ付いて、賞金を1億円から8900万円に下げなければならなかったということがあったほど。
デイトレーダーなんてなっちゃったら、自分の好きな数学ができなくなる。
それより、お金という概念をなくした方がいい。
「太郎さんに取って、その、お金という概念がなくなるっていうのは、どれくらいの確率で起こると思えてるの?」
確率を言うことは、意味がないんだ。
例えば、明日の降水確率が10%の時、本当に雨が降るかどうかは、どうやって決まるのだろう。
降水確率10%の時、本当に雨が降った。
それは、誰かが、神様を味方につけたときなのだ。
もしかしたら、その日、ある幼稚園で遠足の予定があったとする。
降水確率が10%なら、みんな喜んでいるだろう。
でも、園児の中に一人、インフルエンザで、明日遠足に行かれない子がいたとする。
その子が、
『ああ、明日雨になって、遠足が1週間延びてくれたらなあ』
と、望んでいたとする。
しかも、その子は、家が貧しくて、ほとんど旅行に行ったことがないとする。
その子の強い願いが、神様の心を動かし、ついにその日、本当に雨が降った。
そういう、誰かの願いがあったかどうかが、確率10%のことを引き起こす原因なんじゃないか。
物理学では、
『確率しか分かりません。どっちが起こるかは、あらかじめは、分かりません』
と、言うけれど、本当は、あらかじめの行いが、どっちに転ぶかを決定しているのではないか。
私には、そう思えるのだ。
「えっ、それって、確率は低くても、強く願ってたら、かなうということ?」
人間の世界では、本当にそういうことが起こってる。
1例を挙げれば、今年(2018年)1月にノーベル生理学・医学賞の山中伸弥さんが所長を務める京都大学iPS細胞研究所で、論文の図に改ざんがあったことが発覚したとき、山中さんが辞任するのではないかと、ささやかれた。
でも、山中さんは辞任しなかった。
それを見て、
『なんで辞任しないんだ』
と思った人は、恐らく日本人に一人もいなかっただろう。
それは、なぜか?
それは、山中さんが、本当に人柄の良い、そして、研究者として、本当に力のある人だということを、誰もが知っていたからだ。
なぜ知っていたのかは、あの人が、いつもそうだったからだ。
麻友さんはご存じないかも知れないけど、あの事件があった後、山中さんが取った行動を知っていますか?
不正の再発を防止するための手立てを講じたのは当然ですが、それよりも何よりも、あの1月以来、自分のお給料を、全額iPS細胞研究所に寄付することにしたのだ。
「そんなことを言ったって、太郎さんだって、お給料なんてもらってないじゃない」
私は、働いていないのだ。そして、養わなければならない家族もいないのだ。
全然、違うのだ。
そして、辞めなくてもこういうことをする人だろうと、皆が分かっていたから、
『なんで辞任しないんだ』
と、思うような人が、いなかったのだよ。
論文の不正が発覚した段階では、山中さんが辞任する確率も、50%くらいあったのかも知れない。
でも、辞任しない方に転んだのは、やっぱり今までの行いが、神様に認められていたからだと、私は、思う。
そして、こういう、
「神様に認められた」
というような、確率のどちらに転ぶかも、自然科学としていずれ扱えるようになる。
それが、私の持っている、数学的直観の力に、自信を与えているものなのだ。
「太郎さんの数学的直観の力?」
私の数学的に、
『こうなりそうだ』
という直観は、不思議と当たるのだ。
長くなったけど、
『麻友さんと結婚できる確率が1000万分の1だけれども、その微かな確率が当たるのではないか?』
という直観は、きっと当たると思うんだ。
麻友さんは、忙しい人だから、私に長い手紙やメールを送るのは、無理だと思う。
でも、
「病気がもっと良くなるのを待ってるわよ」
の一言でも、書いてくれれば、私は、本当に嬉しい。
二人で、人生の冒険をして行こうよ。
「でも、私達、23歳も離れてるのよ」
歳の差なんて、乗り越えられるよ。今までの2年11カ月を、振り返ってごらんよ。どれだけ、楽しい冒険をしたか。
「それで、結局太郎さんの病気は、治るの?」
私の病気は、類い希な空想力と、頻繁に起こる解釈エラーが両方重なったとき、発病する。薬をきちんと飲むなどして、脳がエラーを起こすほど疲れないようにしていれば、妄想は起こらない。ただ、この場合の薬は、睡眠薬だから、飲めば、頭の働きが落ちるのは、避けられない。
睡眠薬以外で、解釈エラーが起こるところまで、疲れないようにしようと思っても、私の脳は、夢中になると自分が疲れているのも忘れて走り続けてしまう。
ある意味、私の脳は、安全装置の付いていないコンピューターなのだ。
類い希な空想力がなければ、人の想像を絶する発見はできないだろうし、思いついたアイディアを、とことん考え続けられない人に、数学の問題は解けるはずもない。だから、私は、数学者として、素質はあるが、安全装置が付いていないことだけが、障害者になっている理由なのだ。
麻友さんと結婚しても、薬は飲み続けることになると思う。
薬を飲まなくても大丈夫にするには、私の脳に、
『自分が疲れている』
ということを知らせる回路を、取り付けることだ。
これをやらなければ、私は、薬を飲み続けなければならないと、思う。
世の中には、素晴らしい芸術家だが、配偶者が日常のことを全部見ているというような人もいる。
だが、私は、薬さえ飲めば、正常な人とほとんど同じ生活を送れるのだ。
女の人には好かれなかったが、見かけ以上に普通な人間なのだ。
その一例が、野球。
私は、横浜にいたときは、強いので、読売ジャイアンツと西部ライオンズを応援していた。
ところが、広島へ行ったら、広島カープファンになって、1番高橋、2番正田、3番ロードン、4番小早川、・・・と、暗唱するまでになったのだ。
「えーっ、太郎さんにそんな一面があるなんて」
そうなんだよ。天才って、変わっているのが全部とは、限らないんだよ。
「じゃあ、私が、太郎さんを見ていて、疲れてきたようだったら、『寝なさいよ』って言ってあげるように注意してたら、太郎さんは、常に正常なの?」
麻友さんには、そんなかいがいしいことは、無理でしょ。
「っていうか、『自分が疲れている』ということを知らせる回路って、普通の人は、疲れたら、眠くなるものよ」
だから、私って、夢中になると、眠くならないんだって。
「じゃあ、眠くならせれば、いいじゃない」
だから、睡眠薬飲んでるんだって。
「あっ、そうか。太郎さんの病気って、統合失調症って、名前はすごいけど、それだけで治る病気なんだ。じゃあ、ほとんど、治ってるのね」
これから、薬を飲んでいて、ブログも夜書かないことにして、様子を見てみよう。
脳が疲れなければ、発病しないのなら、麻友さんともまともに結婚生活を送れる。
お金を稼ぐ必要のない世界になれば、私のことを、ヒモだと揶揄する人もいなくなる。
名実ともに、まともな夫婦になれる。
ついでに、数学で発見でもできたら、本当にハッピーだ。
「待ちなさい。私と結婚できるだけで、一生の運を使い切っているはずよ。何が、数学で発見ができたらハッピーよ」
冒険は、二人でするんだ。そのために、麻友さんに数学や物理学を教えてるんだ。二人ともハッピーになれると思うよ。
「それは、いいけど、もう6時間40分経ってるわよ。2時間ルールは?」
疲れないものだから、書き切っちゃった。
そろそろ、母のところへ、夕食に行ってくるよ。
「じゃあ、バイバイ」
バイバイ。
現在2018年3月12日18時40分である。おしまい。