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大江健三郎の文章は難しい?(その2)

 現在2019年11月28日17時36分である。

麻友「あら、大江健三郎

私「この間の10月4日の『モーツァルト交響曲第37番(その2)』の投稿での約束果たすよ」

麻友「1月半なら、覚えていて当然か」

私「いや、忘れかけていた。ただね、すっごくいつもビックリするんだけど、麻友さんとのことの場合、取り返しの付かないことになる前に、必ず思い出せるんだ。その大切なことを」

麻友「ボケ老人になったら、容赦なく振るわよ。でも、なぜ(その2)?」

私「麻友さんと会う前の2015年1月23日に、既に1回書いているんだ」

若菜「お母さん。今日は、お母さんが試されるんですよ」

結弦「お父さん。大江健三郎の文章は、そんなに難しくないみたいに言ってたけど、こういうのが難しいとかいうのを、持ってきたのかな?」

私「まあ、先入観なく次の文章を、読んでみて。大江健三郎の『「自分の木」の下で』という短編集の文庫版だけにある解説。良い言葉だから、全文写すよ」


「自分の木」の下で (朝日文庫)

「自分の木」の下で (朝日文庫)


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 子供も「難しい言葉」を自分のものにする

   ───文庫版のためのあとがき



     1

 あの本を書いたことで、自分の生き方が変ったというと、おおげさな言い方だと思われるのじゃないでしょうか? それでも小説やエッセイの本を永年書いてきた私には、ふりかえってそう思うことが、幾冊かについてあります。

『個人的な体験』という長編小説がそうです。光が生まれた時の経験を、父親の心の動きをふくめて事実そのままではありませんが、鳥(バード)という若い主人公を作って、フィクションとして書きました。自分が小説を書くことをつうじて、これから知的な障害を持って生きてゆかねばならない子供と、どのように一緒にやってゆくか、その決心をかためようとしたのでした。

 この本を出版してから四十年たっていますが、その間に、私が小説家として続けてきた仕事はすべて、『個人的な体験』という木の、幹から生い茂った枝葉のように感じます。そのようなことが可能であったのは、最初の小説を書きながら考えたことが、本当にそれまでの自分を作り変えるほどのものだったし、それからの光と私、家内、そして次つぎ生まれてきた子供たちとの共生が、つねに養分を補給してくれたからだと思います。

 光が生まれた年の夏、かれはまだ病院の特児室にいたし、家内も入院中でしたが、私は広島へ仕事に行きました。そして原爆病院の重藤文夫院長から、被爆者たちの苦しい闘病や、それまでの生活の背景について話を聞きました。先生が引き合わせてくださった患者の方たちの話も聞きました。

 私はその一週間をつうじて、それまで難しい状態にある赤んぼうをいつも頭においていることで自分の内側にだけ目を向けていたことを、弱くだらしないと認めました。そこで、まずまっすぐ立っている自分にしたいと、心を鍛えようとしました。そのために、被爆者についてのエッセイを書いてゆくことにしたのです。広島で見たり聞いたりしたことに、自分をつきつけなおすようにして……

 そして、『ヒロシマ・ノート』という本を作りました。この本で考え始めた、核兵器と人間という問題は、その後やはり四十年間、私がこの世界のなかに日本人として生きていることを、新しく起こってくる社会的な出来事と照らし合わせながら考えるために、一番の基本となりました。


     2

 いま私は、『「自分の木」の下で』を、最初にいったような本だと考えています。もう老年の私が──この文庫版が出るとすぐ七十歳です──、この本を書いたことで自分の生き方が変わった、と感じているのです。どこが変わったと思うかを、まとめてみます。

1。この本を、私はまだ子供といってもいい若い人たちに読んでもらいたい思いで書きました。そこで、自分の文章が新しくなったと思うのです。やさしく明快に書く、という気持をつねに働かせて、しかし自分が長い間育てあげてきた、表現する力は弱めないようにとねがって、私は書きました。書きなおしをする間、それをねがい続けたといった方が、さらに実際にそくしています。

 そしてこの本を出版したことがきっかけとなって、中学校や高等学校に行って生徒たちと直接話すことになりました。生徒たちに文章を書いてもらって、意味がはっきりしてくるように書きなおしもしました。私としては、自分の文章を書きなおすと同じことをしているつもりでした。

 教室での、そうした生徒たちとの付き合いをもとに、テレビの番組が作られたこともあって、生徒の数をはるかに越える若い人たちやお母さん方から手紙をもらい、 そのすべてにではありませんが、やはり文章を書きなおしてみるヒントをこめた返事を書きました。なぜお母さんたちにも、といえば、それはお母さんと子供の文章をめぐる話し合いに参加したかったからです。

 一時期、毎日のようにそれをしたことが、私自身に文章を書くことについて新しい発見をもたらしたということもできます。

 こんなことを、年をとった作家が、と思われるかも知れませんが、

 ――そうだ、文章はひとりの頭のなかで作られるものじゃない!文章は、「少なくともふたりの人間の間でできあがる! としみじみ自分にいったりしたものです。

2。この本でしばしば私は、子供のころの自分について、また父と母について書きました。それが誘い水になって――これも私が子供だったころ、家の台所の脇にあった井戸から水を汲み上げる時、まずポンプの胴にコップ一杯の水を入れて、というようにしたのが、誘い水――、私はずっと思い出さなかった、自分の子供としての経験を幾つも発見したのでした。

 それを重ねるうち、子供の思い込みとしてではありますが、学問にはもとより教育には関係のない人たちだった、と思ってきた父と母が、それぞれ独特に、私を教育することを心がけていてくれたことに気がついた、ということもあります。

3。そして私は、この本を書くことから、自分がもう本当に老人だということを受け入れ、しかも老人である自分のなかに、子供の時からの水脈が生き生きと流れていることを確かめたのです。そして、自分が老人としてすらも存在しなくなった後、未来に向けて生きてゆく子供たちに向けて、なにかいっておきたい、と思いました。これまでの人生と職業からかちとっているものをつうじて、世界について、社会について、また人間について、これが大切だと思うことをつたえよう、と決心したのです。思えばそれは多くの老人たちが、まじめにねがっていることです。

 私の場合、自分のやることは「言葉をつたえてゆく」という短い文節で、書き表わすことができます。次の世代にバトンを渡すとよくいいますが、言葉ですから、そのいちいちを、小さめのバトンとして、何本ものバトンを渡したいのです。考えてみれば、『「自分の木」の下で』を書き始める時すでに、私の胸のなかにはこの考え方の芽があったと思います。



    3


 あとがきをここまで書いてきて、私はふと、若い人たちが、自分はお説教されているようだと反感を持つかも知れない、と思いました。実際に私自身が、「難しい言葉」を使っての大人のそうした言い方に反発する子供でした。そして、今思い出してみて、あれらのたいていの場合、自分は正しかった、と考えます。ただ、そうした言い方、そして書き方にも、その大人が、どうしてもこのことをいって・書いておかなければ、とまじめに考えてのことだと感じる時、よし、それなら自分も我慢して聞こう・読もう、と思い、最初の態度をあらためたことがあったものです。

 そして、そのようにして受けとめた「難しい言葉」が、自分のなかに根を生やし、いまも文章を書く時、浮びあがって来るのに気がついてもいます。その実例をひとつ書いて、あとがきをしめくくろうと思います。

 それは、希求するという言葉です。私は子供の時、というよりまだ幼児の時――というのは私が母親の膝にもたれていたのを覚えているからですが―――、母がこういって、それを聞いた村のお医者さんの奥さんが笑った、そして幼いながら自分が傷つけられた、という思い出を持っているのです。

 ――この子は、自分の使う言葉はみな、いつ聞いたものか知っておりますが!

 私自身その時、みなということはない、と思ってはいたのです。それでも、面白いと感じる言葉について、これはいつ自分が出会ったものか覚えている、ということは幾つもありました。そして子供の私に、それは自然なことでした。若者になってからは、その言葉を使った人の思い出とともに覚えています。その人に直接聞いたこともあり、その人の本を読んでということもあります。そのうち意識的に、面白い言葉に出会うと、それがふくまれている詩の一行・文章の一節を、そのまま覚えるようにしたのです。これは今でも私の習慣です。日本語と外国語についてやります。

 さて、希求するという「難しい言葉」を覚えたのは、私が四国の森のなかにいた――村での生活のことは、この本で何度も書きました――、それも十二歳の春だったとはっきりしています。戦争が終ったのは十歳の夏、その前年、父がなくなっていました。そこで、私は中学校に入ることはできない、とあきらめていました。ところが、敗戦後の改革で、私の村にも授業料のいらない新制中学ができました。私は喜び勇んで、一年生になり、学校で教わることなら何につけても興味を持ったものです。この年から新しい憲法が施行されました。社会科の先生から、この憲法のいちばん大切なところが、子供の生活と関係づけて短かく書いてあるといわれて、同じくこの年にできた教育基本法をノートに写させてもらいました。

 それは「難しい言葉」の連続でしたが、私はその文章が好きでした。まず最初の、《われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに》という、そのわれらはという言い方が気に入ったのです。

 私の村でも戦争に行って死んだ若者たちは幾人もいました。また、都市としてはいちばん近い松山市が空襲で焼かれ、私の家でも、そこの大きい紙屋との取引がなくなって母は心を痛めていました。停電が続き、日が暮れると家の前の道路で焚き火をして話し合う大人たちが、どうやってこれから生活して行くか、みんなまじめに考えていると感じられました。そしてその感じが、われらはといって、子供の教育のことをいろいろ決めてゆく、法律の文章と同じに思われたのです。

 そして、その文章のなかで、とくに希求するという言葉が、この法律を考えて紙に書きつけている人の顔つきまで、私に想像させるようだったのでした。意味だけでいえば、望むでも、もとめるでも、希望するでもいい。しかし、食べ物も住む所も十分にない、戦争に負けた国で、まじめな大人たちが、これから作ってゆく学校の方針を子供らに約束する。それにふさわしい言葉だ、と私は思いました。

 そして、それに続く、《普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育》がされるのであれば、自分はしっかり受けよう。まだ何になるか目標がはっきりしてるのじゃないけれど、この感じでやってやろう、と決心していたのです。



    4


 希求するも「難しい言葉」のひとつです。私たちの毎日の生活で使われることは、まずありません。それが気に入った子供の私が、さすがにしゃべったりはしませんが、作文に書くことがあると――「難しい言葉」をそんなふうに使ってみるのが、お調子者といわれても仕方のない、私の性格でした――、先生たちから笑われたり、皮肉られたりしたものです!

 私もいま、「難しい言葉」は、できるだけやさしく、生き生きした言葉に言い換えようとします――この本を書いたことがきっかけになって、とくにそれを心がけるようになったのです――。

 それでいて私は、五十年以上も、自分のなかに希求するという「難しい言葉」が生き続けていることを、愉快に思うのです。さらに、この言葉をしっくり使っている教育基本法を、誇らしくさえ思っています。

             (二〇〇四年十一月)
                 大江健三郎


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私「入学試験だったら、こんな風に全文引用するなんてことは、できないんだけど、私は、良いものは全文引用する。ところで、3人に、問題がある。問題のために、一部切り抜く。第3段落のところだ。問題に答えて欲しい」



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    3


 あとがきをここまで書いてきて、私はふと、若い人たちが、自分はお説教されているようだと反感を持つかも知れない、と思いました。実際に私自身が、「難しい言葉」を使っての大人のそうした言い方に反発する子供でした。そして、今思い出してみて、あれらのたいていの場合、自分は正しかった、と考えます。ただ、そうした言い方、そして書き方にも、その大人が、どうしてもこのことをいって・書いておかなければ、とまじめに考えてのことだと感じる時、よし、それなら自分も我慢して聞こう・読もう、と思い、最初の態度をあらためたことがあったものです。

 そして、そのようにして受けとめた「難しい言葉」が、自分のなかに根を生やし、いまも文章を書く時、浮びあがって来るのに気がついてもいます。その実例をひとつ書いて、あとがきをしめくくろうと思います。

 それは、希求するという言葉です。私は子供の時、というよりまだ幼児の時――というのは私が母親の膝にもたれていたのを覚えているからですが―――、母がこういって、それを聞いた村のお医者さんの奥さんが笑った、そして幼いながら自分が傷つけられた、という思い出を持っているのです。

 ――この子は、自分の使う言葉はみな、いつ聞いたものか知っておりますが!

 私自身その時、みなということはない、と思ってはいたのです。それでも、面白いと感じる言葉について、これはいつ自分が出会ったものか覚えている、ということは幾つもありました。そして子供の私に、それは自然なことでした。若者になってからは、その言葉を使った人の思い出とともに覚えています。その人に直接聞いたこともあり、その人の本を読んでということもあります。そのうち意識的に、面白い言葉に出会うと、それがふくまれている詩の一行・文章の一節を、そのまま覚えるようにしたのです。これは今でも私の習慣です。日本語と外国語についてやります。

 さて、希求するという「難しい言葉」を覚えたのは、私が四国の森のなかにいた――村での生活のことは、この本で何度も書きました――、それも十二歳の春だったとはっきりしています。戦争が終ったのは十歳の夏、その前年、父がなくなっていました。そこで、私は中学校に入ることはできない、とあきらめていました。ところが、敗戦後の改革で、私の村にも授業料のいらない新制中学ができました。私は喜び勇んで、一年生になり、学校で教わることなら何につけても興味を持ったものです。この年から新しい憲法が施行されました。社会科の先生から、この憲法のいちばん大切なところが、子供の生活と関係づけて短かく書いてあるといわれて、同じくこの年にできた教育基本法をノートに写させてもらいました。


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 問題.

母がこういって』というのは、大江健三郎のお母さんがなんと言ったのでしょう。



麻友「えっ、問題、これ1問? そのために、あんなに巻物のような文章読ませたの?」

結弦「これだから、お父さんは、カメさんだって言われるんだよ。ひとつの問題の背景まで、全部考えてるんだ。たまんないよ」

若菜「それで、なんと、答えれば良いのかしら?」

結弦「難しい言葉を、言ったんでしょ。だから、『希求する』って、言ったんだろ」

若菜「いくらお父さんが、余計なもの引っ張ってくるって、言っても、意味があるんじゃないですか」

麻友「そうなんだ。一見、『希求する』にも見える。だけど、カギ括弧でくくってないけど、

『この子は、自分の使う言葉はみな、いつ聞いたものか知っておりますが!』

が、答えなんだ。

 これは、ひとつの言葉が、文章の中で、どういう意味を持って使われているかとか、前後の関係とか、後に書いてあることから、前に遡って、自分が間違えて受け取っていたら直したりできるだけの、言葉の容量を持っていなければ、分からない。そういう文章なんだ。

 太郎さんは、その一番明瞭な例を、ここに持ってきてくれたんだ」

私「そういうことなんだ。この1問解くだけで、自分の国語力が、ちょっとは、アップすると思うよ」

結弦「お父さんは、どうやって、気付いたの?」

私「最初は、私も、『母がこういって』というのを、読んで、『希求する』が、含まれている言葉を言ったのだろうな、と思った。ところが、次のページへ行って『さて、希求するという「難しい言葉」を覚えたのは、私が四国の森のなかにいた――村での生活のことは、この本で何度も書きました――、それも十二歳の春だったとはっきりしています』まで来て、あれっ、幼児じゃないじゃん。と思って、1ページ戻ったんだ」

若菜「そこで、戻ってチェックするのが、お父さんなんですね」

麻友「結論として、大江健三郎の文章は、難しいわよ」

結弦「確かになあ」

若菜「でも、時間をかけて読めば、分からなくはないんじゃないですか? 日本語ですし」

私「大江健三郎だって、数学だって、最初から難しいのにまともにぶつかったら、難しいのは当たり前。自分のペースを見つけて、アタックを繰り返せば、登れない山なんてない」

麻友「じゃあ、太郎さんは、大江健三郎の文章は難しいけど、解読できないほどではない、というのを、結論とするのね」

私「そういうことだ」

結弦「中学1年生に、こんなの・・・」

若菜「中学3年生でも、大変だったわね」

麻友「またね」

私「バイバイ」

 現在2019年11月28日14時37分である。おしまい。