現在2019年5月16日7時54分である。
今朝起きて、昨日の『今夜くらべてみました』観たよ。
「21時からだったから、寝ちゃったのね」
仕方が、なかったんだ。
「どうだった?」
久しぶりに、麻友さんの声が聞けて、嬉しかった。
「それだけ?」
麻友さん、相変わらず、おとなしいから、司会者が、一所懸命、『まゆゆは?』って、話振ってた。
「あ、うーん」
いいんだよ。それが、麻友さんのキャラクターなんだから。
「でも、それじゃ、バラエティー番組では、失格よね」
それは、どうかな?
以前、『湯川さんの愚問』という話をしたでしょ。
「ああ、『麻友さんの愚問』という投稿ね。どっかで、何か、やらかすといいのね」
『やらかそう』ではなくて、本当に疑問に思ったことを、率直に、聞いてみると、面白いことになる。
「ところで、WOWOWは、見始めたの?」
正直言って、『グリーン&ブラックス』以外、観る時間ないとおもう。
「そんなに、太郎さんって、忙しいの?」
仕事を、してなくても、『悪魔は怠け者に仕事を見つけてやる(The devil finds work for idle hands.)』でしょう。
「ああ、英語のことわざね。『暇な手には、悪魔が仕事を見つけてきてくれる』とも、言うわね」
そう。
だから、この高齢化社会では、退職した後の人に、いかにやるべきことを、作ってあげるか、というのは、深刻な問題なんだ。
同様に、障害者が、いかにして、社会に触れていられるようにするか、というのも、課題なんだ。
「さあ、障害の話の始まったところで、父と母を加えて」
じゃあ、シミュレート、スタート。
麻友母「太郎さんのブログを、読んでいて、ひとつ分からないことがあります。太郎さんの『相対性理論を学びたい人のために』というブログは、以前は『一般相対性理論を制覇しよう!』というブログで、ライブドアブログだったそうですが、2005年2月15日に、始まっています。このときは、お父さまと同じ会社で、働かれていたのですか?」
はい、そうです。
父の紹介で入った会社は、1998年7月8日から2007年2月8日まで、勤めていました。
麻友母「それで、気になるのは、太郎さんは、会社の近くの保谷に家を借りて、住んでいるようですね」
はい、当時、そうでした。
麻友母「それで、気になるのが、なぜお父さまは、同居せず、鶴見から2時間15分もかけて、通われていたのかということ。そして、今も、太郎さんが、ご両親と同居せず、お父さまに家を借りてもらって、暮らしている。これは、どうしてなのか? ということなのです」
麻友父「つまり、君が、人と(つまり麻友と)、同居できないのではないかと、心配なんだよ」
それは、正直に説明するので、納得してもらえると、思います。
まず、京都大学時代、数学の証明を読まず、認めて良さそうな定理は、どんどん認めて、最先端を、目指していました。
しかし、証明が必要になったときのために、認めた定理の証明が書いてある本は、すべて買っていました。
絶版になっている場合は、図書館で借りて、全部コピーしました。
当然、お金が、かかります。
本も増えます。
私が、発病し、京都から連れ戻されたとき、父母は、なぜ私が、そんなに本を買ってるのか、知りませんから、
『太郎には、現金をたくさん持たせては、駄目だ』
と、考えました。
また、父は、色々な本を読んで、どうすれば、息子を、社会復帰させられるかと、調べました。
その結論として、父は、私に、小学校レヴェルから、教育をやり直さなければならない、と決心しました。
「えっ、小学校レヴェルって?」
例えば、私は、当時飲んでいた、向精神薬の副作用で、歩くとき、腕が幽霊のように曲がったままで、腕を振って歩くということが、できませんでした。
父は、一緒に歩くとき、
『手を伸ばせ』
だの、
『手を振れ』
だの、
『もっと、大股で歩け』
だの、
『ロボットのように、手を振ってる』
だのと、言ってきて、毎日のことなので、周囲の目もあるので、
『手を伸ばせ』は、1番。『手を振れ』は、2番とか、決めて、
『太郎、1番!』
とか言ってくるんですね。
私としては、たまりませんよ。毎日なのですから。
麻友父「他には?」
『自立することが、重要だ。どうやったら、自立できるか、レポートを書け』
などと、言ってきました。
麻友父「それで、本当に、書いたのか?」
「太郎さんは、2週間に1回、書いてたのよ」
麻友父「見せてもらえないか?」
分かりました。
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夢と現実
私の夢は、数学の分かる物理学者になることだった。というのも最近の物理の本を見ていると、物理的直観に頼って数学がいい加減にされているのが目立つからだ。数学をきちんと理解した上で物理の問題に立ち向かえば、今まで解けてなかった問題も解けるのではないか、それを私の仕事にしようと意気ごんでいたのだった。無論入学当初からそうだったわけではない。朝寝ぼうをしたりして授業をさぼるようになり、嫌でも本を読んで独学しなければならなくなったからだ。授業に出ていれば、と今更ながらくやまれる。実際、数学をやってから物理を、となると時間が足りないからだ。結局そのジレンマから抜け出せず、勉強は進まなかった。そして終わってみると、大学で得たものは、普通の人が1年間で得る量よりも少なかった。自分ながら情けない。先日、そのわずかの知識───私独自のもの───をまとめて本にしてはどうかと思い立ったが、うまくまとめられなかった。もう私の頭は以前のように働かないのである。
現実はどうなのか。もうそろそろ就職先のことを具体的に考えねばならないところまで来ている。どうやら物理や数学とは無縁な方面になりそうだ。私自身としては3Kのどれかについて、お金をためて勉強もして、もう一度大学へ行きたいと思ったりもするのだが、勉強しようと思って読み始めた本も三日ぼうずになっており、こんな弱い意志ではとてもそんなことできそうにない。大学入学以前はあんなに真面目だったのに、と思うのだが、これが私の本性なのだろう。
家族の人たちはよくしてくれる。お父さんは私の病気のことを良く調べてくれるし、病院に払っているお金もお父さんのものだ。お母さんも毎日私のことを考えてくれ色々してくれる。妹や弟も私の本の置き場をつくってくれたり、カーディガンを選んできてくれたり、励ましてくれたりする。こんなにしてもらわなければとっくに自殺していただろうと思う。なぜなら以前からお父さんに「物理学者になれなかったらどうするんだ」と聞かれたときには、「自殺する」と答えていたからだ。他のことは一切考えず物理学者になることに専念したかったからこう答えていたのだが、まさか失敗するとは思わなかった。私の残りの人生は家族を悲しませないためのおまけみたいなものだ。とは言うものの、生きていくためには何かしなければならない。
私の職探しは今始まったばかりだ。アインシュタインにとっての特許局局員のような仕事はないものだろうか。ゆっくり勉強していつかランダウ・リフシッツ理論物理学教程を全部読み、松田物理学教程を書きたいものだ。それを私のライフワークにしたい。
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麻友父「これが、レポート? これに対する、君のお父さんの評価は?」
このように、書いてきました。
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読んだ 95/02/12
-本や解説書を書く事は、学者の本来の仕事ではない。
-「職探し」とは具体的に何か
-数学は物理を説明するための道具ではないか。(もちろん、数学はそれ自体で存在価値を持っているが)
さかのぼっていたら、きりがないし、時間も足りない。
-次のテーマは、もっと現実的な事を選ぶように。
例:家族,友人(親友),異性,仕事,病気,音楽,やりたい事
自由題
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麻友父「まあ、当たり前の評価だな。そもそも、こんなレポートを、大学生に書かせることに、どれほどの意味があったのだろう。それに、君も、お父さんに媚びるようなことを、書いてる」
でも、父は、良いことをしたと、得意だったんです。
1年後くらいに、
『太郎も、やっと長い文章が書けるようになった』
と、喜んでいたのです。
麻友母「あら、そうなのですか。他に、小学校レヴェルからの再教育というのは?」
雨の日に、傘をさしていると、
『子供みたいに、傘を肩にかけるな』
と、言ってきたり、おそば屋さんに入ると、
『そばをじゃぼんと、つゆに浸けるな』
などと、言ってきます。
麻友母「有名な、落語がありますよね。たっぷり、浸けたかったって」
はい。『時そば』の枕に使われたりする、有名な話ですね。
食べ物の恨みというのは、恐いもので、他にも覚えています。
麻友父「どんなことだい?」
私、食事をするのも、のろいんですね。
理由の一つは、食べ終わったとき、お茶碗にご飯粒が、ひとつも残らないように、食べるからなんです。
当然、一粒ずつ、拾い上げている瞬間があるのですが、父が、もっと速く食べろ、と言ってくるわけです。
それから、ある晩、私が、粗相をして、トイレを汚した朝、父母は、その処理に困ったらしいんです。
それで、夜帰ってきた父が、
『なぜ粗相するようなことに、なったと思う?』
と、聞いてくるんですね。
父は、
『不規則な生活をしているからだ』
という答えを欲しがっているのは、私も、分かっていたのですが、前の晩、お通じもあったし、私には、それが、正解でないのが、分かっていました。
麻友父「原因は、なんだったんだ?」
便秘止めの、アローゼン0.5g のせいです。
麻友父「それで?」
父は、思い込むと、正せない人間ですから、私から色よい返事が、得られないので、
『じゃあ、分かるまで、食事は、おあずけだ』
と言いだし、それから、3食くらい、食べさせてもらえませんでした。
麻友母「随分、恨みがありますね」
こんなことも、ありました。
大学4回生で、自分のすべてを、改革しようとしていた私は、ノートを綺麗に書くために、ひらがなの練習をしようと思って、本当に小学校1年生のひらがなのドリルを、買ってきて、練習を始めていたんです。
それは、発病で、止まっていましたが、少しして、再開しました。
それを、見ていた父が、
『計画的にやるというのは、こういうことなんだ』
と言って、
『1日に3ページやることにして、残りの全ページに、そこをやるべき日の日付を、書き込め』
と、言うんですね。
仕方がないから、書き込んでいると、母が来て、
『そんなの、書いた通りになるわけない』
と言って、やめさせたのですが、父は、
『こういうのが、計画的にやるってことだ』
と、あくまで、言っていました。
麻友母「まだ、恨みがあるんですね」
まだ、あります。
朝起きて、もうすぐ食事だと思っていると、父が、
『太郎、口が臭いぞ』
と、言いだし、歯を磨くまで、言い続けているんです。
麻友父「ここまで、並べたのは、データなんだろ」
そうです。
1994年7月に発病。
1995年から、新横浜のデイケア。
1995年8月から1997年7月まで2年間デイケアから作業所である、『ギャバンスパイス』に通う。
1997年8月、デイケア卒業。
1997年9月から1998年7月まで、ミシンがけの作業所ワートレ。
そして、1998年7月8日から、父と働く会社へ。
最初は、私も、父と、京浜東北線、山手線、西武池袋線を乗り継いで、2時間15分かけて、通っていました。
通勤ラッシュというのが、どういうものか、分かったのは、良かったかも知れません。
しかし、父親と同じ職場なんて、続く方が、おかしいです。特に、障害者の場合。
麻友母「それで、太郎さんだけ、保谷に家を借りたのは?」
私が、家出をしたからです。
「家出! そんな話は、聞いてないわよ」
1999年2月26日の金曜日、夕食の席で、父が、
『なぜヒットカウンターが、できあがらないんだ』
と、言ったのです。
「ヒットカウンターって?」
桃とかリンゴなんかの熟している具合を検査する機械で、
『今あるヒットカウンターを、半年で、改良して欲しい』
というのが、最初の仕事だったんだ。
「2月なら、半年経っている。どういうことだったの?」
私が、会社へ行くと、上司の人が、
『この仕事を手伝って欲しい』
と言って、CADを使う仕事を、渡してくる。
もちろん、本来なら、
『ヒットカウンターの仕事がありますので』
と、断って、ヒットカウンター作りに、専念するべきだ。半年しか、ないのだから。
だが、私は、こういうとき、意地悪になるのだ。
私は、こう考える。
『この上司は、私を試しているんだ。私が、本来のヒットカウンターのために、頼んだ仕事を断るだけの誠実さがあるか、あるいは、ヒットカウンターもやり、頼んだ仕事もやる。残業してでも。そういう優秀な社員かどうか、試してるんだ。いい度胸じゃないか。この私を試すなんて。じゃあ、そちらの誘導に乗って、私は、この会社に相応しくないと、証明してやろうじゃないか』
そういうわけで、頼まれた仕事は、やったが、当然、ヒットカウンターは、できあがらなかった。
「太郎さん。そんな、前にも気付いたけど、腹黒い人なのね」
これくらい、誰だって、考えるでしょ。
「でも、普通の人は、そこで、苦しむのよ。太郎さんみたいに、『いい度胸じゃないか。この私を試すなんて』と、ふんぞり返るなんて、普通の人、できない」
麻友父「京都大学中退でも、自信は失ってなかったんだな」
麻友母「太郎さん誠実でない、と言いかけましたけど、これを、ありのままに、説明してくれるのが、太郎さんの誠実さなんですね」
さて、そのヒットカウンターが、できてないことを、なじった父の前で、私は、黙っていました。
父が、
『お前何、考えてる?」
と、聞きました。
『太郎が、この家を出て行った方が、良いのかなって』
と答えると、父は、
『そうだよ』
と、いいました。
つい最近気付いたんですけど、父は、
『家を出て行った方が、良い』
を、お金を貯めて、自分の家を借りて、今の家から出て行くという意味に取ったのかも、知れません。
「そこは、微妙ね。ただ、少なくとも太郎さんは、その日のうちに出て行くという意味で、言ったのね」
そう。
もう、父の存在が嫌で、このまま行くと、父を殺す可能性もありました。
「殺すって、冗談でしょ」
私が、冗談で、そんなことを、言う人間では、ないことは、麻友さんが、1番知ってるはずだ。
実は、父と朝の通勤で、総持寺の中を、歩くとき、マンホールが、いくつもある。ほとんどは、『おすい』と書いてあるのだが、3つだけ『あめ』と書いてある。
私は、その3つのマンホ-ルを踏みながら、
『松田徹郎死ね』
と、呪っていた。
「えっ、じゃあ、冗談でなく。でも、太郎さんがそんなに呪っても、お父さま、健在ね。罰当たりなこと、と言いたいけど、太郎さんって、ものすっごく幸せな家庭に育ったって、本当なのね。それで、お父さまを殺す可能性があったから、どうしたの?」
私の持っている本400冊くらいから、50冊、どうしても手放せないものを選んで、それを持って、家を出たんだ。
「家を出たって、どこを、目指して? 親戚とか? それとも、取り敢えず、ホテルに泊まるとか?」
1,500円くらいしか、持ってなかったんだ。
「えー、じゃあ、野宿?」
京浜急行のガード下で、雨をよけてたんだ。
「本当の話なんだ!」
そうだよ。まだ、『麻友』ノートはなかったけど、私が勉強してたノートに、その日の日記が299ページに書いてある。かなり生々しいよ。
「えっ、今、ちょっとずつアップロードしてるノート?」
そのとおり。
「それが、金曜日の晩。どうやって、帰ったの? 許してって?」
帰ってないよ。
「でも、凍え死んだわけじゃないし」
3月1日の月曜日に、本は取り敢えず、
『しばらく置かせて下さい』
と張り紙して、保谷に行って、社長が、出社してきたところで、
『私、今のままですと、父を殺しかねません。でも、尊属殺人は、罪が重いですからね。これ以上、父と同じ会社には、いられないので、辞めさせて下さい』
と言った。
社長は、
『取り敢えず、車に乗ってろ。親父さん連れてきたりしないから』
と言って、朝の打ち合わせをした後、戻ってきて、社長の自宅に連れて行ってくれて、お風呂に入れてくれて、奥様が、食べさせてくれた。
社長が、
『おかあさんに、電話しろ』
というので、
『母は、スケッチ旅行に行ってるはずなんです』
と言ったが、
『いや、お前のお母さんは、絶対いる。もしいなかったら、1万円やってもいい』
というので、電話したら、確かに母はいた。
そういうわけで、あまりにも、父と同じ屋根の下にいると、険悪な状態になるので、1999年11月28日に保谷に引っ越し、お互い離れていると、問題は起こらないことが、実証された。
麻友父「そのホームレス状態で、金土日月と、何をやってたのかね?」
実際に、時間があったのは、土日だけなんですが、土曜日は、今、ドラえもんのブログで連載してる『現代論理学』を読んでいました。日曜日は、『コマの科学』という本を、読んでいました。

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麻友父「そんなことで、生きて行かれると、思ってたのか?」
でも、現実にあれから20年。ちゃんと、生きてますから。
麻友母「確かに、ものすっごく幸せな家庭に育ったということといい、人に恵まれていることといい、もの凄く、運が良いのよね。半端じゃなく、運が良いわ」
麻友父「これで、ずっと謎だった、別居している理由も、説明してくれた。統合失調症の症状がどこまで現れるのかは未知数だが、麻友には何でも話しているようだから、麻友と同居できないのではないか、という不安は、払拭された」
「太郎さんも言ってたけど、もし統合失調症になってなければ、売れ残ってなかった1人だわね。でも、私だって、太郎さんに見初められたってことは、運が良いのよ」
麻友父「じゃあ、これで、統合失調症に関しては、問題は解決だな」
じゃあ、次回、磁石の話をします。
麻友母「頑張ってね」
「太郎さん。珍しく14時50分なんかに終わったわね」
健康というものは、当たり前のものに、なって欲しいよ。
「じゃあ、バイバイ」
バイバイ。
現在2019年5月16日14時52分である。おしまい。